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誰かの夢で目が覚める。
いつもの時間に起きて、いつも通りに完璧に夜の女としての身支度を整えて。ベッドサイドの写真に笑いかけてから、鍵をかけて部屋を出る。鍵はいつ誰かが帰って来てもいいように、ポストの中に放り込んで。
視界にネオンがちらつきはじめたところで、彼女の横にプレジデントが止まった。
「乗れよ」
「.....貴明さん」
今や闇の帝王となった石橋貴明。めったに側へ人を寄せつけず、人前に出ることもほとんどなくなった。以前よりさらに鋭くなった眼光が、黒髪の間から覗く。
「ちょっとつきあえ」
「でもあたし、これから仕事.......」
「京ちゃんに許可はもらってある」
そう言って、石橋は目だけで彼女を促した。助手席に乗り込んだのを確認して、車は高速で発進する。ネオンを通り抜け、緩やかな車の波に飲み込まれる。
「どこへ行くんですか?」
車がハイウェイに乗ったところで彼女はようやく切り出した。
「ちょっと遠いぞ。長旅だから寝てても構わん」
「.........」
不思議そうな顔をする彼女をバックミラー越しに見て、口元で笑う。
「真鶴だよ」
「え........」
「一緒に成井に会いに行こう、ひろ美ちゃん」
深夜の真鶴の海は、静かだった。
遠い水平線で小さな灯が光っている。二人が今いる場所は観光スポットとは離れた崖で、周りにはうっそうと木が茂っていた。もっとも今は暗闇で景観も何もあったものではないが。
「ほら」
石橋が花束を差し出した。ひろ美が受け取ったのを確認してから、煙草に火をつける。
「ここの海に成井は眠ってるよ」
「..........」
「あいつとは懸け離れてるけどな、何もないよりいいだろう」
真っ白い百合の花。彼女は無言でそれを暗い海に向かって投げた。暫く落ちていく様を見つめてから、彼女は石橋に向き直る。
「.....一浩、は......」
「中、入ろう。寒いし、誰かに聞かれたくない」
「誰かって、誰も.....」
「成井がそこで聞いてるよ」
石橋はそう言って車へ戻る。彼女がそれを追って再び助手席に座ると、石橋はシートを倒して深く身体を沈めた。
「......あいつはな、もう俺といるのが嫌になったんだと。憲武を殺すことを目的にしてきた俺が、憲武が他人に殺されたことで衝撃を受けてるのを見て、そんな俺とはいられないと」
「........」
「もう、俺のいる世界にはいられないとよ」
「.....じゃあ、一浩は.......」
「俺が殺した」
あっさりと言い放って、煙草の灰を落とす。
「間違えるなよ、俺は成井を殺したかったわけじゃない。あいつが望んだからそうした。ここに身体を眠らせてほしいと言ったのもあいつだ」
「......貴明さん」
彼女は姿勢を正すと、石橋に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう.....ございます........」
「..........」
「よかった、あの人の最期の瞬間にいたのが、貴明さんで......ほんとによかった.......」
「......礼を言われるのはなんだか複雑だが」
「あの人を殺すのはあたしか、それか貴明さんだったらとずっと思ってました。一浩は世の中全てに興味がなかったから、いつか自分で死を選んでしまうんじゃないかって、あたしは恐れていたんです。一浩も、あたしも本望です。ありがとうございました」
安心したように息をついて微笑む。
「そんなにあいつに死なれるのが怖かったのか?」
「いえ、そうじゃないわ。ただ」
「ただ?」
「こんなこと言ったら貴明さんにも一浩にも笑われるかもしれないけど、自殺したら転生出来無いって言うでしょう?あたし、今後どう運命が廻っても絶対また一浩に会う、そしてあの人のために生きるって信じてるの。だから、一浩には自分から運命を放棄してほしくなかったのよ。どんなことがあっても」
「..........」
「自分勝手だって分かってるけど。だからあたしも何があっても、決して自分から命を断たない」
「.......強いんだな、ひろ美ちゃんは」
「そうかしら」
「強いよ。凄く生命力が強い。ひろ美ちゃんはあんな生い立ちを辿って来たのに全然そんな風に見えない。俺らよりもよっぽど『生きている』って感じがするよ」
「それはあたしより、一浩よ。それにあの人はとても人間らしかった」
「そうか?」
石橋は煙草をくわえると、頭の下で腕を組み直して彼女を見上げた。
「そりゃあ長いこと相当鬼畜なことしてきたし、他から見たらあの人は悪魔みたいに見えたでしょうね。でも、一浩程人らしく生きてる人はいなかったと思うわ」
「..........」
「一浩はいつ死んでもいいようなことを貴明さんにおっしゃってたでしょう?自分は何にも興味がないから、いつ貴明さんに切られたってなんともないって」
「ああ」
「貴明さん、生者必滅会者定離って御存じです?」
「生きてる者は必ず死ぬ、会った者は別れるってことだろ」
「ええ。一浩は、生きていることは寂しいことだって思ってたの。虐待されて、誰も信じられなくなって、一浩は人と心を通わせることも向こうから入ってこられるのも拒否した。自分ひとりでいいって思ってた。自分で壁を作ってたのは一緒だけど、意味合いは普通の人が考えるのとは少し違うのよ。愛されて生まれたはずの自分が凶器を向けられたように、いつか自分が信じ自分を信じてくれた相手から拒絶されることが怖かったの。世の中は決してそんなことばかりじゃないし、どんなに信じあっていたっていつか死という形で別れが来る。だから、会うことが別れなら、いっそ誰にも会わない方がいいって。ひとりでいる方が、ずっと楽だって」
暗殺者として背負う闇だけでなく、もうひとつ別の形で背負っていた成井の闇。自分を抱く時、たわいもない話をする時、誰かの人生を終わらせる時、一瞬見せる遠い瞳の中にその闇は宿っていた。彼女は長い間、たったひとりその闇を感じ、見て見ない振りをしていた。
「あえて孤独を選んでいたのか、成井は」
「ええ。あの人は生きることも死ぬことも恐れていたの。何にも興味ないなんて言ってて、実はあの人ほど執着してる人はいなかったでしょうにね」
「..........でも、そんな成井が俺やひろ美ちゃんを映してくれたわけだ」
「..........」
「俺は成井が好きだったよ。俺の言う通り100%こなしてくれて、時にはそれ以上の結果も出してくれて、それでいて俺に必要以上に干渉しない。楽しかった。俺がここまで来れたのは成井のお陰だ。あいつ程俺を理解してくれた人間はいない。俺もひろ美ちゃんまでとは行かなくてもあいつを理解していたと思ってる。だから、幸せになってほしかった」
「貴明さん.......」
「人並みの、いやそれ以上の幸せを掴んでほしかった。ひろ美ちゃんとならあいつもそうなれると信じていたよ。でも、それをぶっ壊しちまったのは俺だな」
くわえただけの煙草にやっと火をつけて、石橋は自嘲気味に笑う。
「だから俺はこれから何があっても生きなきゃいけない。憲武が死んで俺はひとつ何か失った。それから、成井を失った分成井から何かひとつ背負わされた。その分俺は生きる。それが憲武への餞と......成井が今まで俺に尽くしてくれたものへの償いだ」
「そうしてくださるとあたしも嬉しいわ。でも一浩は決して自分の命を貴明さんに託したわけじゃないから、あなたはあなたなりにまっすぐ進んでくれないと、一浩が浮かばれない」
「分かっている。成井もそう思っているだろうし、そのためにひろ美ちゃんのことも頼まれた」
「あたしの?」
「今後どんな道に行こうとも、ひろ美ちゃんだけは邪険にしないで使ってやってくれってよ」
「あら」
彼女はくすりと微笑んだ。
「俺は無論そのつもりだったがな。俺と成井を繋ぐものは今まで一緒に生きて来た時間だけじゃなくひろ美ちゃんだと思っているし、成井とひろ美ちゃんを繋ぐものは俺で、俺とひろ美ちゃんを繋ぐものは言うまでもなく成井だ。その成井の遺言だからな、俺は自分の全て賭けてでもそれは守る。だから、ひろ美ちゃんも成井に言われたもんとして協力してくれ」
「勿論だわ。一浩程役に立たないとは思うけど、努力します」
「しかし成井には散々あれこれねだられたが、今回程重いもんはねえよ」
シートを戻して煙草を灰皿に落とすと、石橋はため息をついて窓の外を見る。
「うっかりヘマでもしてあいつんとこ行ったら冷てー目で追い払われそうだし、今までみたく成井に頼ってのらくら仕事してらんねーし、3つも頼み事されちまったし」
「一浩に?」
「死ぬ間際にな。自分を殺すこと、自分の身体をここへ葬ること、それから」
内ポケットから封筒を取り出す。
「これ、ひろ美ちゃんに渡してくれとよ」
「一浩から......?」
「さすがの俺にもキツい任務だった。中見てみ」
彼女はそれを受け取ると指先でゆっくりと中の薄い白い紙を取り出した。石橋はその姿を横目に、また煙草に火をつける。
「...........!」
テレビドラマか何かでなにげなく見たことのあるその紙。いつもよりも丁寧な成井の文字。フルネームの署名。浮き上がる、赤い実印。
「最期の、成井の真実だよ」
右側に石橋と木梨の署名。
「一.........」
ぽたぽたと紙に涙が落ちた。その見なれない紙はあとはもう彼女が署名して印を押し、所定の場所に提出すれば手続きが済む。紙一枚、ただ通常に生きていくには何の変わりもないけれど確かに法律上は二人が結ばれるもの。心の繋がり程大切ではないけれど、成井が側にいない以上確実に時々は訪れるだろう寂しさからわずかから逃れられるかもしれない事実。
「一浩......っ........」
「憲武のは俺が筆跡真似て書いた。俺が名前書いて、それからひろ美ちゃんに渡してくれって言われたんだ。.......今相応しい言葉か分からないが、俺は安心したよ」
前を向いたまま石橋は続けた。
「最期の時に俺は成井にひろ美ちゃんを愛しているか聞いてみた。成井はしっかり頷いた。それでもひとりになった俺の側で、自分だけ幸せになることは出来無いと言ったよ。しかし俺を執行人に選んだ。自分をこの世から消す、それから成井とひろ美ちゃんを認める、たった一人の人間として」
「......う....っ.......」
「......成井を愛してるか?」
「勿論.......よ.........」
ハンドルにもたれかかって、彼女を優しい瞳で見上げる。
「今後何があっても、成井だけを生涯思って生きていくことを誓いますか?」
「......誓い、ます........」
それを聞いて石橋はドアを開け外に出ると、崖から暗い海を見下ろしてくわえていた煙草を遠い水面に向かって投げた。
「聞いたか、成井」
波が岩にでもあたったのか、ザバ、と一瞬大きく音をたてる。
「石橋貴明の名において、ここに二人が永久に結ばれたことを証明します」
白々と夜が空けはじめていた。
助手席で眠る彼女を石橋はゆっくりと首を回して見る。頬に涙のあと。シートに手をかけるとぎしりという重みで彼女が目を開けた。
「......貴明さん」
「目、覚めたか。着いたぜ」
「何しようとしてたの?」
石橋はふっと笑って彼女の顎に手をかけた。
「傷心の未亡人を慰めてやろうかなー、なんてな」
「.......一浩が化けて出るわよ」
彼女は微笑んで石橋の咽にとんと指をあてる。その手をとって、石橋は立て爪のサファイアの指輪のはめられた手をまじまじと見た。
「成井は左手に指輪してたけど、ひろ美ちゃんはそれらしきもんはしてねえのか」
「あたしは指輪じゃないの。でも一浩と同じもの持ってるわ。あたしと一浩しか見えないとこにあるの」
「それは俺でもやっぱ見せてもらえねえのかな」
「........どうかしら」
二人で笑いあう。
「ま、成井に聞いてみてだな。俺とひろ美ちゃんの仲だもんな」
「そうね、一浩が許すなら考えないでもないわ。あの人がいなくなって寂しいというのなら、慰めてあげても結構よ」
「ふん、その言葉そっくり返してやるよ。なんなら思い出させてやってもいいんだぜ?」
石橋が起き上がったのを確認してから、彼女はドアを開けて向き直る。
「じゃあ」
「ああ」
「何かする時は必ず御連絡下さいね」
「分かってるよ。俺をそう拝めるのもひろ美ちゃんくらいだぜ、感謝しな」
「あたしの夫に感謝しますわ」
そう言ってひらりと車から降りると、彼女は一度深く頭を下げた。頷いて、石橋は車を発進する。
成井一浩で繋がった二人。成井のために終わりのない未来へ。
いつか再び会うその時のために、新たな誓いを持って二人は生きる。
深く広い闇へ向かって。