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『神波』
事務所が視界に入って来たところで、ふと神波は足を止めた。誰かに呼ばれた気がして、辺りを警戒しながらきょろきょろと見回す。もちろん誰もいない。再び歩き出して考える。
今自分が気にかけるもの。憲武さん。星野さん。高久さん。大原。
.......大原。
自分が出る時、大原は星野の代理として港との約束の場所に出向く手はずを説明されていたはずだ。途端にいやな予感が胸を埋めて行く。もし、あってはならないがもし何かあるとすれば、大原しかあり得ない。
神波は急いで走って事務所へ入ると、帰りの挨拶もそこそこに荷物を投げて声をあげた。
「星野さんっ、大原は!?」
「あ?ああ、もうとっくに出たぞ、高久に途中まで乗せてくように頼んだんだが.....そういや遅いな。そろそろ戻って来てもいいはずだが」
「連絡とかは.....」
「いや。どうかしたか」
「俺......俺、すげーイヤな予感するんですよ」
泣きそうな声の神波に、星野は笑って肩を叩く。
「落ち着けよ神波、やたらそんなことねえって」
「でもっ、連絡もないなんておかしいじゃないですか」
「分かった。ちょっと電話してみっから」
星野は側の電話を取って、高久への番号を押す。ゆっくりと、表情が変わった。
「.......おかしいな、電源入ってねえよ」
「......!」
「逐一連絡とれるように口酸っぱく言ってあっから、まさか電池切れなんてわけないしな」
その言葉に、神波は星野に言った。
「俺、あっち行って来ます。何もなければそれでいいでしょう?」
「バカ、何言ってんだ。そんなら俺が行く」
「ダメですよ、星野さんはここにいて下さい。俺じゃ、憲武さん守り切れません!」
「!」
ドアに向かいかけた神波の肩に手をかけた動きが止まった。ぐっと息を飲む。
「神波.......」
「無茶しませんから、大原の様子だけ確認して来ますから。場所、A突堤の11倉庫でしたね」
「あ、おいっ」
「連絡ちゃんとしますから!!」
星野を振り切って、神波は事務所を飛び出した。
相変わらずの予感を胸に抱きながら、神波は走る。いちばん近いルートと思われる道をひたすら進んで、A突堤に立ち並ぶ倉庫の奥へと向かって行く。暫くして取り引き場所と思われる倉庫が見えて来て、神波はゆっくりと足取りを遅くすると息を整えた。3分の1程開いた鉄の扉を、いっぱいに開ける。何故か、中は静かだ。気持ちの悪い空気が辺りを包む。
奥へと進んだ神波は、信じられない光景を目にした。
「大原!!」
約束では港組の関口と尾崎がこの場にいるはずだった。しかし、その二人の影はなく、代わりに側の木箱に座って優雅に煙草をふかしている成井と、腹部を押さえて倒れている大原がいた。
「大原っ」
「......神.....神波.......?」
「.........!」
大原の元に駆け寄って彼を抱き起こした神波は、成井の方を見る。
「......久し振り、って言った方がいいかな?」
「成井さん......」
にこりと成井は笑って、ふっと煙を吐き出した。
「これは、あなたの仕業ですか」
「そうだよ」
「そうだよ、って......」
「.......俺、ちょっと約束の時間に遅れてここ来たら......最初っから関口さんも尾崎さんもいなくて........成井さん、が、いきなり.........」
腹部からは大量の血。腹を押さえる手の間からも流れ落ちて、大原の白いシャツは赤く染まっていた。
「大原、高久さんは?」
「それが.......途中で石橋のとこの人に急襲されて......多分、俺の為に足留めされて、る......」
「神波が平山さんと再会した時一緒にいた人だよ。心配しなくてもあの人はやたら人殺したりしないから。俺と違ってね」
足を組み直して、成井は表情を変えずに言う。神波は強く成井を睨み付けた。
「半田さんを殺したのも、あなたですか」
「まあね。俺は勝手に死ぬように仕向けただけだけど」
「う........」
腕の中の大原が呻く。自分の手と、大原を染める血の量に改めてぎょっとして、神波は眉を寄せると無理に笑った。
「ちょっと待ってろよ、すぐ病院連れてってやるからな」
「神、波.......」
負担をかけないように大原の身体を横たわらせて、成井と対峙する。
「最初から、これが目的だったんですか。憲武さんに取り入って、うちの情報横取りすることが」
「ああ」
「そのために、あんな傷作ってまで.......」
「別にたいしたことじゃない。うちの組なら、貴明さんなら当然の事だ」
成井は灰を床に落としながら続ける。
「全く良く出来たものだよ、あんなに簡単に引っ掛かってくれるとはね。ま、それじゃなければ貴明さんと木梨の現在の状況も成立しないわけだし、当たり前なんだけど」
「そんな.......星野さんも高久さんも半田さんも、俺も、大原も、憲武さんも、成井さんを信じてたのに、仲間だと思ったのに......っ.......」
「........仲間?勝手にそんなもんに入れられちゃ困るな」
「な.......」
「簡単に人を信じるお前らがバカなんだよ。いらつくんだよなそういうの」
「.......!!」
「半田さんは最後まで俺を疑ってたけどね。だから最初に片付けた」
「......あなたって、人は......っ.......」
神波は我慢出来ずに成井の元へ歩み寄ると、襟元を強く掴んで立ち上がらせた。ぎりぎりと唇を噛む。しかし成井は全く表情を変えずに、神波を見つめている。
「俺達の、憲武さんの信頼はどうなるんだよ!最初っからそんなつもりで取り入ろうとしてたなんて!!」
「勘違いするなよ、勝手にそっちが仲間だって思ってただけだろ?最初の時点でもうちょっと疑ってみればよかったのに。ああ、甘ちゃん揃いじゃしょうがないか」
「ふざけんじゃねえよ、よくも、よくも大原を.......」
「ここんとこの状況下で油断してるそっちが悪いね」
「成井さん.........!」
神波はますます手に、目に力を込めた。
「う.......う........」
背後から大原の小さな呻き声。コンクリートの床にどす黒いしみが静かに広がって行く。その速度と同時に、意識もだんだん薄らいでいた。
「大原!しっかりしろよ!!」
成井を睨んだまま神波は大声で叫ぶ。苦しげな呼吸の中から大原が何か言ったが、神波には成井のあまりの冷たさに逆上して頭に血が昇っていて聞こえていなかった。
「神波」
ふと成井が口を開く。
「急所外してるから、大原今かなり辛いと思うよ?」
「成......」
「もう、やばいんじゃないかな」
「ふ......ざけんな........っ......!!」
神波はもう拳を握った手を勢いよく振り上げた。
そのとき。
「!」
霞んだ大原の瞳が、成井の懐に光るものを見た。続いて、どすんと何かがぶつかるような音がする。
「.........あ..............」
腹部に衝撃を感じて、神波は大きく目を見開いた。ゆっくりと視線を下に映す。銀色の刃が、鈍く光る。成井を見上げると彼は無表情で、さらに力を込めて刃を神波の体内に押し込んだ。
「耳の近くで怒鳴らないでくれる、うるさいから。ついでに俺、他人に触られるの物凄い嫌いなんだよね」
「な.....るいさ.........」
神波の手が成井の襟元からゆっくりと離れる。震える手で、突き刺さったそれを抜き取って床に転がした。カランと乾いた音。鮮血が飛び散る。
「か......神波......っ.........」
崩れ落ちるように床に倒れた神波に大原が手を伸ばす。しかしその手は歩み寄った成井によって踏み付けられ、神波に届くことなく床に押し付けられた。
「う、あ.......」
「おとなしくしてな、そのうち楽になるから」
「く......」
「こんな雑魚に2発も使うのもったいないと思ってやめたんだけどな、やっぱそっちにしときゃよかった、汚れちゃったよ」
上等のスーツと手についた血を見て、成井はひとり舌打ちする。腹を押さえて蹲り、それでも成井を睨み付ける神波を足で転がすと、ボタンの合わせ目からシャツを引きちぎって血を拭った。
「う......う.......」
睨み付けることしか出来ない自分を歯痒く思いながらも、神波は目線を外さない。
「じゃあこれ、貰ってくよ。横取りなんて真似しないでちゃんと金置いてくからね」
シャツの切れ端をはらりと落とすと大原の預かって来ていたケースを抱え、代わりに側に置いてあったジュラルミンケースを血溜まりの間に置く。
「成井.......さ.......」
「ああ、短い間だったけどお世話になりましたって木梨に言っといて。生きて帰れたらの話だけど」
「.......くそったれ......っ.......」
「んー上等上等。そんだけの口聞けるなら、もしかしたら無事帰れるかもよ?余計なとこに神経使わなければね」
「き......さま......」
「ま、楽に死にたかったらじっとしてろよ。じゃあな」
成井はポケットからサングラスを取り出してかけると、神波ににこりと笑いかけて出て行く。カーブを描いた唇に浮かぶその笑みは、あの時神波が見た、穏やかさの中に裏のある恐ろしく残虐なものだった。
がしゃんと鉄の扉が閉まる。神波は血溜まりの中を必死に這いつくばって大原の側へ近寄った。なんとか身体を動かして、胸に顔を当ててみる。鼓動は聞こえているものの、ひどくゆっくりで身体も冷たかった。
「大原......大原.......」
呼び掛けても応答がない。神波自身も傷口からどんどん血が溢れて身体に力が入らなくなっている。それでも必死で大原を揺すると、投げ出された手がぴくりと動いた。
「大原......しっかり、して......」
「..........」
「大......原......っ......!」
「.......う......」
「今誰か.....そだ、星野さん......呼ぶから......」
神波はポケットに手を入れるが、力が入らなくてなかなか携帯が取りだせない。ふとすれば遠のきそうな意識の中なんとか手に握るものの、指先が震えてボタンを押せない。
「ちっくしょ.....手、手、動け.......!」
最初から不安はあった。だが、信じていたかった。その成井に裏切られた、そして傷つけられた怒りと悲しみ。そして自分の身体が動かないもどかしさで神波は涙を流しながら言い聞かせるように呟く。ボタンをなんとか押して、電話が繋がるのを待つ間にも、大原の容態はどんどん悪くなってゆく。自分を支えているものが何かも、もう分からない。
『はい、星野』
電話の向こうから星野の声が聞こえて、神波はほんの少しだけ安心する。
「あ.....星野、さん......大原、が.......」
『神波か!?大原がどうした!』
「な.....成井さん、に.......俺も......」
『成井.....?』
「......も.......大原......やばくて.....お、れ...............」
『........おい、神波?神波!どうした、返事しろ!神波!!』
いつの間にか手から電話が滑り落ちている。大原は目を閉じたまま動かない。電話の向こうから星野の力強い声がするのを意識の片隅で聞きながら、神波は血溜まりの中に突っ伏していた。
目を開けて真先に飛び込んで来たのは、真っ赤な目をした高久の顔だった。
「か......神波い.......よかった.........」
「........高久さん........?」
「ごめんなあ.......ごめんなあほんとに.........」
高久は手の甲でぐいぐいと溢れる涙を吹きながら頭を垂れた。その高久と、白い天井を交互に見つめる。
「高久さん、は......大丈夫だったんですね........」
「ほんとだったら俺が.......俺がやっぱ行ってれば......っ.......」
「そんなこと、ないです......高久さん無事でよかった.......」
「神......う、う.......」
左手に輸血の為の針が刺さっている。神波は奇跡的に命を取り留めていた。痛む腹部を押さえながら、神波は高久を見つめる。
「高久さん......大原、は.......?」
「..........」
「大原は.....どこ......?あいつも、大丈夫だったんでしょ.......」
高久は唇を噛んだ。神波がうわ言のように繰り返す。
「大原は......?」
「..........」
涙を拭うのも忘れて、高久はゆっくりと首を横に振る。
「そ..........んな...............!」
先に病院を出た星野は、携帯を取り出してボタンを押す。ちょうど星野がここへ着いた頃、入っていた留守番電話。
『石橋組の飯塚と申します。0時、アールホール跡地にて、お待ちしています』