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「.........いやな色した月だな」
「そうですねえ」
事務所には高久と半田と成井の3人。窓から見える赤い月に高久が呟くと、成井も思わず外を見て頷いた。
「なんだか少し蒸すような気もしますし。百鬼夜行ってのはこういう夜のこと言うんですかね」
「決戦も間近だからなあ」
パソコンに向かっていた半田が、ふと手を止めて欠伸をする。成井がその姿を見て笑いながら立ち上がった。
「半田さん、眠いんですか?」
「うーん、ちょっとね」
「半田さんはいつも眠いんだよ、元々そんな顔してるし」
「俺コーヒー入れましょう」
「砂糖いらないから、ミルクだけ入れて」
「はい」
成井はキッチンへ向かうと3人分のコーヒーを入れる。そして、内ポケットから角砂糖状の小さな固形物を取り出すと、静かに半田のカップに落とした。
「どうぞ」
「ありがとう」
「サンキュー」
テーブルに置いたカップを高久と半田がそれぞれ受け取り、口に運ぶ。半田の咽がごくりと動いたのを確認してから、成井は自分もカップに口をつけながら向かいで新聞を読んでいる高久の方を向いた。
「高久さん」
「んー?」
「........ちょっと、耳に入れておきたいことがあって」
その言葉に高久はばさりと新聞を閉じて顔をあげる。
「何だ?石橋の新しい情報か?」
「ええ、まあ一応。星野さんに言おうかとも思ったけど、あの方はこういうこと好きじゃないかなと思って」
「........おいらならいいってのかい」
「あ、いや、俺はそういうのも作戦だって思ってますけど、星野さんはこう何というか、まっすぐな方ですから、裏から手を回すようなことはお嫌いだと思って」
「まあそりゃそうだわな。それじゃなきゃお前をここに入れることなんかしねえでその場で殺ってただろうし、こないだのアレだって後ろから不意打ちくらい出来たのに、ほんとにあっさり帰しちゃうんだからな」
「まあ俺は殺されなくて有り難かったですけど」
「で?」
高久が身を乗り出す。側で半田もパソコンに向かいながら耳を傾けた。
「ジェリー......飯塚っていう、貴明さんの所の一番下の奴の、弱点です」
「.........」
「彼には、長年臥せってる妹がいます。心臓の病気で長い間入院してますよ」
「へえ..........」
「彼は元々は貴明さんの所の人間じゃなかったんですけどね、そういう理由で莫大な手術費が必要なんで、他から引き抜かれたんですよ。あいつは妹のために動いてますよ。妹のためだったら、何でもします」
「それを盾にどうにか出来っかな」
「まあ人質とまでは行かなくてもね、会話の隅にでも出せば必ず動揺するでしょう。ついでに言うと飯塚の相手は星野さんになったみたいですから、高久さんがどうにか動けば」
「いいの?成井そんなこと言って」
静かに聞いていた半田が口を出す。
「知ってるよ、成井もここに来るまでは金出してたんだろ?その妹のために」
「よく知ってますねえ」
「俺をなめるなよ、お前程のレベルじゃないけどこれでも優秀なんだからな」
半田は笑った。
「あの成井一浩がそんな慈善事業みたいなことしてるのが俺には不思議でしょうがなかったんだよ」
「ああ、俺が飯塚とは一番つきあいがありましたからねえ、それに特に金の使い道もなかったんで、暇つぶしに」
「........ふーん.......」
「成井はいいのか?一応その頃は情があったんだろ?」
「でもまあ、もう関係ないですから。飯塚ももう敵ですし、元々妹と何か関係があった訳でもないですしね。別にあの娘が死のうと俺にはどうでも」
「.......そういうとこを見ると、昔の成井が蘇るなあ、どうも」
成井の苦々しい顔を見て、半田はさりげなくそう言った。が、途端に不安げな表情を浮かべた成井を見て、慌てて弁解する。
「ああ、気に障ったら勘弁。俺はよく知ってるからさ、あの『成井一浩』をね」
「俺をまだ疑ってるんでしょう、半田さんは」
「そうじゃないって。ああもうやめとこう。俺らには分からないことだもんな、お前がどんな仕打ち受けてここに来たかってことは」
「...........」
「.......まあ、頭には置いとくわ。サンキューな成井」
「いえ」
少し気まずい空気が流れる。高久は成井に礼を言って煙草に火をつけると成井の肩をばんばんと叩いた。
「半田さんの気持ちは分かってくれよな。多少は俺も同感だ。特に半田さんは憲武さんと最も長くいるんだから。どうして俺達がこんなことしてなきゃいけないのか、お前だって良く知ってるだろ?」
「ええ」
「お前もいろいろ大変だったのは聞いてるけどさ」
「...........」
「思い出したくない話かい?」
「.......いえ、ついでですから、少しくらいは」
高久の言葉に返して、成井は自分も煙草を取り出して高久から火を貰う。煙を吐き出してから、少し笑ってゆっくりと口を開いた。
「あの頃の俺には適材適所だったんですけど、今から思うと信じられませんね」
「.............」
「御存じの通り俺は貴明さんの所の世話役に拾われて命を得ました。元々人を信じる感情を知らなかった俺にはあそこはぴったりでしたよ。貴明さんは余計なこと言いませんし、仕事さえやってれば文句も言われないですから。機械みたいに生きてたんですよ」
「それが........」
「ええ。裏切られる、というのはこういうことなのかってのを自分の身でよく知りました。まあ産まれ落ちた時から俺はそうだったのかもしれないんですけどね。親にまで疎まれたんですから。因果応報ってやつなのかもしれませんけど。俺はこんなことになるまで、ずっとただ人を殺すだけのために生きてましたから。俺が殺した人の恨みが別の形になって返って来たのかな、とか思いましたよ」
「石橋貴明、か.........憲武さんと一緒だった頃は物凄い手腕で組に大分稼ぎをあげてたって聞いたけど、結局ああいう人間なんだもんな。いらなくなったら即捨てか。人を何だと思ってんだか」
「俺も昔は別に何もそんなこと気にしてなかったんですけどね。まあある意味感謝に当たるのかもしれませんけど、こうなったことは。俺がただの駒だったってことがよく分かったし、俺もこれだけ人生生きて来て漸く人らしくなれたんですからね」
「.........おいらにはいられねえとこだな」
「ここへ来た時の俺見ればよく分かるでしょうけど、失敗したら凄いですよ。飯塚ってのもよく暴走して失敗して、気絶するまで殴られてました」
「うわ、そりゃ酷ぇや」
「俺だって、いっそひと思いに殺してくれればって思いましたし」
「..............」
「世話になった恩はまだ少し俺の中に残ってます。でもそれ以上にやられた傷が痛みますから」
「........もうすぐ、その痛みも消えるさ。これが終わりゃあな」
「そうですね」
話が一段落して、成井がふと半田を見る。半田はパソコンに向かったまま腕を組んで眠っていた。
「あ、半田さん寝てる」
「あーあー、あんなとこで寝ちまって。言ってくれりゃあソファーでいいのによう」
「大分お疲れみたいですね」
「そうだな、憲武さんと星野さんの両方にいろいろ用頼まれてるし。お前も大変だろ」
「俺は平気ですよ」
「大原と神波来るまでまだちょっと時間あんな」
高久はそう言ってちらりと時計に視線を向ける。
「こう言っちゃ何ですけど、暇んなっちゃいましたね」
「夜はあんま動けねえからな。こうしてるしかねえよ。待つのも仕事だ」
「ですねえ」
「時間つぶしに麻雀でも打つか」
「二人じゃ盛り上がりませんよ、それにこんな短時間じゃ」
「じゃあオセロ」
「あ、俺結構強いっすよ?」
「おいらも結構いけるんだぜ、賭けるか?」
「いいですよ」
高久が腕をまくりあげて立ち上がり、いそいそと準備をするのを見て成井はくすくすと笑った。
「半田さん、半田さん」
椅子に座ったまま眠っていた半田は、成井に身体を軽く揺すられて目を覚ます。
「......あ、あれ、俺眠っちゃってたの?」
「ええもうぐっすりと。言って下さればよかったのに」
「なんか寝たって気がしないな。いやあ、なんか妙にスッキリしてるわ」
「そりゃあ眠ったんですから。大原と神波来ましたから、俺らお役御免です」
「あ、そう」
成井は既に帰り支度が整っていた。半田が伸びをして立ち上がる。中央のソファーには大原と神波がいて、二人に囲まれた高久がむっつりとした顔で座っていた。
「高久どうしたの」
「ああ、半田さんが寝てる間俺とオセロやってたんですけど、高久さん負けまくりで」
「こいつ鬼みたく強えんだって。たんまり持ってかれちまった」
「だから途中からチャラでいいって言ったのにー」
成井はからからと笑った。
「じゃあ今してくれや」
「ダメですよもう。貰うもんは貰います」
「ちっ。さっさと帰りな」
高久は口元を歪めながら、でも笑って成井を追い払う。半田は笑っている成井を後ろからそっと見遣った。
「じゃ、後宜しくね」
「はーい、お疲れさんでしたあ」
成井の返事に神波が返す。半田も続いて挨拶して事務所を出ると、妙に浮き上がって見える成井の背中に声をかけた。
「成井」
「はいー?」
「.........ちょっと、つきあってくれるかな」
「.........」
真剣な顔。成井は少し驚いたような顔をしてから、にこりと微笑んで頷く。
「ここじゃ何だから、ちょっと」
成井の返事を待たずに半田は歩き出す。成井は口元で笑って、その後に続いた。
事務所から10分程歩いた所にある廃屋ビルの横の道を入って、半田は立ち止まってゆっくりと振り返る。成井は距離を置いて止まり、半田に笑みを向けた。
「何か秘密のお話ですか?」
「そうだな、いつしようか迷ってたんだけど」
「何でしょう」
半田は何故か自分の身体が少しふらつくのを壁に寄り掛かることで支えながら切り出す。
「単刀直入に言うよ。お前、石橋と切れたなんて、嘘だな」
「.............」
「これは憲武さんにしか言ってない。確信は100%持てなかったし、俺も信じたくなかったからな。だけど、ここんとこの状況を見てれば間違いない」
成井は微笑んだまま半田を見つめている。
「わざわざあんなに身体痛めつけてまで、うちに潜入したのか」
「...........」
「成井」
「.............ええ、そうですよ。でも貴明さん達にやられたのは本当ですが」
「どうしてそこまでして」
「当たり前じゃないですか、貴明さんのためにですよ」
じゃり、と足下が鳴る。
「あのくらいやられてれば木梨は信じてくれると思いましたからね。......木梨だけじゃない、あんた達みたいな甘ちゃんなら可哀想にって同情してくれるだろうと思って」
「.........やっぱり、あの成井一浩だな.....」
「思ってたより簡単でしたよ。あんた達に取り入るのは。あんななよなよした振りをするのは毎回反吐が出そうでしたけどね。俺のことをよく知ってる半田さんだったらどんなに俺が頑張ってたか分かるでしょう?」
「.......そうやって......俺も、憲武さんも、星野さんも、高久も、大原も、神波も裏切って.......」
「さっき聞いてませんでしたか?俺には元々そんな感情がないんですよ」
「........っ........」
成井の口から出てくる冷たい言葉に、そして何か別のものに、半田はずきずきと頭が痛むのを感じていた。
「シナリオ通りにやって下さって助かりましたよ。神波が平山さんと顔見知りだったのは計算外でしたが、まあそれもなんとかなります。お陰様でそちらのこともよく分かりましたしね」
「.......それでも......俺は、憲武さんはお前を信じていたのに......っ......どんな黒い噂が出ても、俺は.....」
「それは御期待に添えなくて申し訳有りませんでした」
成井は楽しそうに笑う。半田はぐらつく身体を支え切れず、とうとう地面に座り込んだ。
「どうかなさいましたか?」
言って、静かに内ポケットに手を入れる。その手には銃が握られていて、半田はぎくりとして身構えた。
「........俺んのは取り上げられたはずじゃないかって驚きました?」
「.........」
しかしその銃は星野が成井に貸したものとは違っていた。コルトFBIスペシャル・45口径。かちんとセフティーレバーが下ろされて、思わず半田は身を固くする。
「これは俺の持ち物ですよ。俺をなめてもらっては困りますね」
ゆっくりと銃口が向けられて、頭痛に耐えながらもそれを見返す。と、成井は笑ってレバーを戻すと銃をポケットにしまった。
「.......?」
「これでも貴重な弾ですからね。こんなとこで無駄に使いませんよ。.......それに、もうちょっといろいろ聞き出してからじゃないと、死んでもらっては困りますし。かなり、効いているようですしね」
「........お前......何、を.......」
「さっきのコーヒーにね、ちょっとね。睡眠薬と一緒に」
もう成井には木梨で見せたあの表情はなかった。話にだけは聞いていた、冷たい、感情のない瞳。緩い微笑。
「知ってます?昔CIAではLSDを使って自白剤を作っていたんですよ。それを無作為に選んだ科学者達に投与して実験してたそうです。科学者達は皆最期は何故か密室になっていたビルから飛び下りて自殺。そうね、こちらで教え込めば勝手に飛び下りてくれるそうです」
「く........」
「ロスはそれの入手が目的でした。一番いい状態のをなんとか手に入れてきたんでね。まだ実験もしてなかったですけど、予想以上によく効いてくれて嬉しいですよ」
「成井.......っ.......」
「今は夜ですけど、色彩が輝いてみえるでしょう?主観的影響はそれなんですよね。ほんとは不眠効果ってもあるんですけど、よっぽどお疲れだったのか、それは今になってやっとってとこですか」
確かに異様に意識ははっきりしていた。ただ多少声がくぐもって聞こえる。
「.......ち.......くしょう.....」
「幻覚が出てきちゃう前にね、いろいろ聞いておかないとね」
「は.......っ......」
「まずは、パソコンの中身から教えてもらいましょうか。パスワード辺りから」
心臓が耳許で鳴っているかのようだ。言いたくない。言ってはいけないはずなのに、その自分の意志に逆らえない。半田は顔を歪めながら、口を開いた。
「........パス.......ワード......っ........は......」
いくつかの優しい、しかし半田にとっては残酷な尋問が終わった後、半田は額にべっとりと汗をかいていた。吐き気がする。視界は鮮やかだが、目の前は歪んでいた。
「どうもありがとうございました」
「はっ......はあっ......」
「さて」
成井は両手をジャケットのポケットに突っ込んで、脇の廃屋ビルを見上げる。
「ちょうどいい。ここに昇って、いちばん上から飛び下りて下さい」
「成......井.......」
「さあ、ゆっくりでいいですからどうぞ」
成井に引き起こされて背中を押される。微かに残る意志とは逆に、半田は足を引きずるようにしてビルへ向かって行った。
「..........」
静かな街に、半田の階段を昇る靴音と、まだ残っている正常な意識から放たれる成井を罵るような言葉が響く。靴音が止まり静寂が周りを包むと、成井は微笑んでビルに背を向けた。
「さよなら、半田さん」
やがて、鋭いガラスの割れる音と、何かが地面に叩き付けられる鈍い音が聞こえた。