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トントン、と、白い引き戸のドアがノックされる。程なくして中から少女の声がして、その声を認めるとジェリーはドアをゆっくりと開けた。ひょいと顔を覗かせると、ベットに上体を起こしていた少女の顔がぱっと明るくなる。
「よ」
「お兄ちゃん」
「ごめんな、なかなか来れなくって。元気にしてたか?」
少女-ジェリーの妹、理恵は読んでいた文庫本を閉じると表情をきらきらさせて久し振りに会った兄に微笑みながら言った。
「大丈夫よ、最近なんだか身体の調子もいいの。検査の結果も順調だし」
「そうか」
ジェリーは理恵に薦められた椅子を手で軽く制して、ドアの方をちらりと見てにこにこと笑う。
「今日はお客さん連れて来たぜ」
「お客さん?」
「お前がもっと元気になるかもしれない人だよ。......いいすよ、どうぞ」
そのジェリーの声に、ドアの向こうから成井が姿を現した。
「やあ、久し振りだね理恵ちゃん」
「成井さん!」
グレーのシンプルなカットソーにジーンズと珍しくラフな格好の成井は、理恵に笑いかけてジェリーの隣に立った。ベットの縁に腰掛けたジェリーに椅子を薦められ、ゆっくりとそこに腰を下ろすと足を組んで緩やかに笑う。
「こないだ帰国したんだよ、成井さん」
「おかえりなさい......わあ、びっくりしちゃった」
「ただいま。元気そうでよかった」
「もうずっとこちらにいるんですか?また兄と一緒のところに?」
理恵の問いに、成井はジェリーと顔を見合わせて苦笑した。
「.....んー、そうだね、もう海外へは行かないけど、ちょっと君の兄さんとは仕事が別になっちゃうんだ、でもまあ、たまには顔出すから」
「そうなんですか......わあ、どうしようお兄ちゃん」
「どうしようって、もっと元気になったろ?お前顔赤いぜ」
からかうようなジェリーの口調に、理恵はもっと顔を赤くしてジェリーを睨む。
「ちょ、お兄ちゃんったら.....」
「憧れの成井さんだもんなー」
「お兄ちゃん!」
「俺が憧れなの?理恵ちゃんみたいな可愛い子にそんなこと言ってもらえるなんて嬉しいな」
成井はそう言って微笑んだ。頬を染めた理恵の顔をジェリーはにやにやと笑って見て、でも優しく手を伸ばして髪を撫でる。
「これでまた手術頑張れるだろ?俺も成井さんもついてるからな」
「うん」
その手に触れて、理恵はジェリーを見つめた。
「........んー、何か俺お邪魔っぽいなあ」
「え?」
「いくら憧れでも君の兄さんには勝てないからね」
「成井さん!」
ジェリーは慌てたように手を離す。照れて俯く理恵に冗談冗談、と手を振って笑うと、キイ、と椅子を鳴らして考え込んだ。
「何か海外の話でもしてあげたいけど.....ロスはあいにく理恵ちゃんが楽しいようなことはなかったしなあ......あ、香港があったか」
「香港........」
「凄く活気のある街だよ。夜はネオンがさざめいて、とても綺麗だ。女の子はそうだな、買い物かな、なんでも安いし、食べ物もおいしいし」
「香港って昔007の舞台にもなりましたよねえ、あの島がたくさんある」
「そうそう。俺がいたのは九龍島っていう、ちょっと危なめのとこと香港島。九龍島はあれだよ、ゴルゴ13とかでたまに使われてる、あそこ。ビルばっかでね」
「へえ.....」
「あとマカオに行く機会があったんだけどさ、そこにある教会があってさ、そこのマリア様の顔がね、2百年前は普通の顔だったのにだんだん笑顔になってきてるってのがあって、それ見に行ったよ。あれ理恵ちゃんに見せたかったなあ、凄い綺麗な顔しててね。俺あんまそういうの信じない方なんだけど」
理恵は目をきらきらさせて成井の話に聞き入っている。
「マカオってどんなとこなんすか?」
「ああ、香港とは違ってビルとかはあんまないんだ。石畳とかだし、街中も。丘の上に城跡があってね、そこから街が見渡せたりして。川の向こうが中国」
「香港って、どこか有名な山ありましたよね、えっと.....」
「ああ理恵ちゃんよく知ってるね、ビクトリアピークってやつだね。香港全体が見渡せるし、隣の九龍島も見えるし。夜綺麗だよ、函館みたいな。百万ドルの夜景ってあれだな」
「行きたいなあ......私もいつか行けるかな.....」
手を顎の下で組んで想像を巡らす理恵を見て、成井は笑った。
「行けるよ、それには身体、治さないとね」
「はい」
「ああ、そうだ、たいしたことないけどお土産あったの忘れてた」
成井はジーンズのポケットに手を突っ込んで、中から小さな袋を取り出す。
「リトルホンコンって言われてるとこがあってね、そこに宝石の製造工場みたいなとこがあって。俺の知り合いがそこにいたから、貰って来た」
「私に?」
「そんないいものじゃないけど、石だけだし」
手に乗せられた小さな袋を理恵が開けると、小さなブルーの石が入っていた。理恵はジェリーと成井の顔を見比べる。
「すんません成井さん、わざわざ」
「これ......ほんとに貰っていいの?」
「理恵ちゃんにと思って貰って来たんだよ」
「.......ほら、成井さんがそう言って下さるんだから、貰っておきな」
ジェリーに言われて、理恵はその石をきゅっと握りしめた。
「ありがとうございます。お守りにしますね」
「そんなたいしたことないけど」
「ほんとに、成井さんにはいつもよくして頂いて......」
ジェリーが恐縮したように立ち上がって頭を下げると、成井はああ、と手を振ってそれを制す。
「いいからいいから。じゃ、俺ちょっと煙草吸いに行ってるから。久し振りなんだろ?会うの。屋上にでもいるからさ、ゆっくりしてなよ」
「また来て下さいね」
「うん、もうずっと日本にいるんだからさ、時間が空いたら来るから。じゃ、ジェリー」
「すみませんほんとにいつも......先帰って下さっても構いませんよ」
「でもどうせ一緒のとこに行くんだから。待ってるよ。ああ、俺のこと気にしないでいいからさ、まだ時間あるんだし」
「集合、5時、でしたっけ」
「そう。じゃあね、理恵ちゃん、兄さんとゆっくり話しな」
「はい」
成井はジェリーと理恵に笑いかけて立ち上がると、病室を後にした。
「成井さん」
風にたなびくシーツをかきわけて、ベンチに腰掛けている成井にジェリーが声をかける。
「すんませんお待たせして」
「大丈夫だよ、ああ、ちょうど時間だな」
煙草を側の灰皿に押し付けて消すと、成井はジェリーと共に歩き出した。
「来週から俺あっち行くからさ、今日はそれの話だから。ヘマしないようによく聞いとけよ」
「キツイなあ成井さん」
「貴明さんから聞いてるからね、ジェリーの失態」
ジェリーはうわ、と肩を竦ませる。
「........成井さん」
「うん?」
「ほんとに、ありがとうございました、理恵のこと」
「あ、ああ、別にこのくらい」
「さっき主治医とちょっと話して来たんすけどね」
ズボンのポケットに手を突っ込んで、俯きながらジェリーはとんとんと階段を降りながらぽつりと漏らした。
「ここんとこの結果はまあいいみたいなんですけど、まだまだ油断は出来ない状態なんすよ、実際は」
「.........」
「心臓ですからねえ、すぐに治るもんでもないですし」
「金の方は大丈夫なのか?」
「ああ、それは問題ないっすよ、お陰様で成井さんに以前融資していただいたのと、あとまあ俺もそれなりに稼いでますから」
「そうか」
「精神的なとこがね、俺だけじゃたまにどうにも出来ないとこがあって。だから成井さんが今日来て下さって、俺も助かりましたよ」
「何言ってんの、たったひとりの肉親だろ、ジェリー」
「ええ、まあ......」
いくらか落ちた太陽の光を眩しそうに仰ぐ。理恵の病室の方をちらりと見てジェリーは車のキイを取り出してロックを解き、成井が助手席に乗り込んだのを確認してから運転席に座り、エンジンをかけた。
「.......あいつにとって成井さんは王子様みたいなもんですから」
「俺が?」
左右を確認して車を発進させ、国道へと向かう。
「俺はこんなんだし、あいつを楽しませるような話も持ってないですから。成井さんだけが理恵に外の世界を教えてやれる人ですから」
「何言ってんの、ジェリーは理恵ちゃんにとって誰よりも大切な兄だろ。.......兄以上の感情を持ってる」
「!」
「違うの?俺にはそう見えたけど」
「........あいつには、長く俺しかいませんでしたから、そうなるのかもしれません」
「俺はそこには入り込めないし、入る気もないよ」
「でもあいつは成井さんにも恋してるんですよ、成井さんの優しさに」
「俺の優しさなんて気紛れだぜ、それはジェリーがよく知ってるだろ?」
「気紛れでもいいんです」
「........」
「俺や理恵が思ってるより大変な病気だって、成井さんなら分かるでしょう?これからもずっとつきあっていかないといけない病気かもしれないんですから。......完治するかだって分からないんだし」
「そんなことはないだろう」
「だから」
信号で車が止まったところで、ジェリーは成井を見る。
「気紛れでもいいです。ついででも、嘘でもいいから、理恵に優しくしてやって下さい。俺は、いつこの世からいなくなるか分からないですし」
「それは俺も一緒だよ」
「え、ええ.......」
「俺は全然優しくなんかないんだから。そういう風に育ってきちまってるんだし」
「成井さん......」
成井はシートに深くもたれて煙草を取り出した。ジェリーがライターを差し出そうとするのを断って、自分で火をつける。
「気紛れに優しくしてるだけだ。ただ、理恵ちゃんは俺達の世界とは何の関係もないから、あえて突っぱねない。それだけのことだよ」
「........こんなこと言ったら失礼かもしれませんが」
「ん?」
「俺は時々成井さんが分かりませんよ、理恵にはあんな優しい目をしてくれるのに、普段はあんな冷徹に人を殺せる。どこでそのスイッチが入れ代わるんですか」
「さあね、俺もよく分からないよ」
煙を吐き出して成井は笑った。
「俺は、ジェリーとは違うからさ。いくらでも人を欺ける。いつでもスイッチを入れ替えることが出来る。それが他人より上手いだけの話」
「.........」
「........気をつけろよ、お前はそれが下手な方だ。だからヘマもする。貴明さんがいちばん嫌いなとこだからな」
「はい.....」
「それが命取りになること、忘れるなよ。特に今後は。俺の本気を無駄にするようなことはしないでくれ」
「分かってます」
ジェリーはハンドルを握り直した。