3
神波はごく、と唾を飲み込んだ。
目の前に立った男は身長はそんなに高くはなかったが、何か得体の知れない凄みを感じさせるものがあった。二重の垂れた目はしかし、冷たい視線を神波に浴びせる。両手をズボンのポケットに突っ込んで、目だけ動かして観察するように上から下までじっくりと神波を見た。
「何か、あてはあんのかい、稼ぎ先の」
「........べ、別にねえよ、これから何とか見つけるさ」
「これから、ねえ.......」
星野と呼ばれたその男が片手をすっとポケットから出すと、すかさず高久が煙草を差し出して火をつけた。そして神波の方を見遣って軽い口調で言う。
「トーシロがそんな簡単にこの世界でシノギ削ってけるかっての」
「お前は黙ってろ、高久」
ドスの効いた声で一喝されて、高久が神波の目にも分かる程にびくついた。
「お前がヘタ打ったからこんな面倒しなきゃいけねえんだろうが」
「.......は、すんません」
申し訳なさそうに星野を見上げる。当の星野はそんな高久をちらりとも見ずに、煙草の煙をくゆらせた。
「ま、高久の言う通りではあるがな。そう簡単に出来るもんじゃないんだよ、兄ちゃん」
「..............」
「もしヘタ打った場合どうなるか分かるだろ?うちもそんな慈善事業は出来ねえからな」
「そ...........」
星野の視線と声に、思わず足がじり、と下がった。
「途中でイモ引かれても困るしなあ。どうすんだい、本気でやる気あんのかい、え?」
神波は途端に後悔に襲われる。さっきまでの意気込みは当の昔にどこかへ行ってしまった。あまりの高久の脳天気さに遊び半分であんなことを言ってしまった自分を心の中で詰る。
考えていたのと全然違う、本当の極道の世界。族時代にも似たようなことはあったが、もちろんそれとは比べ物にもならない。
ふと高久を見ると、彼は神波を見てにやにやと笑っていた。カチンと来てこの星野と言う男に先程の高久の失態をばらしてやろうかとも思ったが、そんなことをしても何の意味もないことが既に神波に分かっていた。
星野の冷たい視線に、逃げ出したくなって勝手に足が下がる。小柄な体を生かして怯んだ隙にでも飛び出そうと考えた。つい、と何気なさそうに後ろを見る。
「!」
戸の前には、いつの間にか眼鏡をかけた、小太りの男が立っていた。はっとして星野を見ると、彼は口元に微笑みを浮かべて言った。
「言っただろう、トーシロに簡単にできるもんじゃないとな」
「な.........」
「同時に、簡単に手を出されちゃ困るんだよ、外でホイホイ言うかも分からん」
煙草を灰皿に押し付けて、その指で神波の顎をくい、と上げた。そして高久に目で合図する。
「けじめはつけてもらわんとな、例えトーシロでも」
その声と同時に戸口に立っていた男が神波を後ろから押さえ付けた。
「な、何すんだっ」
「けじめだよ、坊や」
「坊やって言うなっつったろ、くそったれ」
相変わらずにやにや笑う高久に神波が悪態をつく。高久はふんと鼻で笑って、神波の片腕を掴んだ。手首を持って、強く机に叩き付ける。
何をされるかが神波にも分かって、さあっと青ざめる。
「まだ何にもしてないだろっ」
「だから、けじめだと言っているだろう」
星野が冷たく言い放ち、引き出しから短刀を取り出す。鈍く光る刃に神波は言葉も出なくなった。ゴト、と机の上にそれが置かれる。
「高久」
「へ?」
「お前がやんな」
星野のその言葉に高久が素頓狂な声を上げた。
「お、俺がやんすかあっ!?」
「当たり前だ、お前が元凶なんだから」
「でででも俺、どうやってやるか分かんねえっすよお」
「俺が言う通りにやればいい」
そう言って星野が高久のかわりに神波の手を押さえ付ける。冷たい手。神波は手首を押さえられているにも関わらず指さえも動かせなくなった。
「おら、早くしな、この兄ちゃんも痛いの待ってるんじゃつらいだろうが」
「で、でも........」
高久はさっき神波に失態を見られた時よりももっと情けない顔をして立っている。
神波の後ろでは小太りの男が静かに睨みを聞かせて佇んでいた。
「..........やれよ」
神波はぼそりと呟いた。星野が目だけ動かして神波を見つめる。
「けじめだろ、つけてやるよ」
何もかもうまく行かない運命にもうやけになって神波は叫んだ。
「おら、早くやれよ!!」
力を込めて星野に掴まれた腕を机の上の短刀の方へ動かした。高久はそんな神波を驚いた目で、しかし泣き出しそうな程情けない顔で見る。
「早くやれってんだよ!」
神波は叫んで、目をぎゅっとつぶった。星野が動く気配がする。
「っ......」
小さく声を上げて、神波は唇を噛み締めた。が、その瞬間はなかなか来ない。
「........待て」
星野の声が頭の上から振って来て、神波はおそるおそる目を開けた。もちろんまだ指はついている。
「お前、何をそんなに捨てているんだ、指がなくなるんだぞ」
「.............」
「いいのか、それで」
「あんたの知ったこっちゃないだろ!」
説教するようなその口調に、神波は星野を睨み付けた。冷たい視線に知らず知らずからだが震える。しかし目だけは逸らさなかった。
(震えるな、俺の足!もう何にも俺にはないんだから)
星野は暫くしてふ、と笑った。
「.......お前、何だってこんなとこにいるんだ、家出でもしてきたのか」
「家なんかない。.........家庭も、家族も」
「人生丸ごと捨てて来たのか」
「.................」
見すかされてふいと顔を背けた神波を見て、星野は腕を離した。
「........いい度胸だ」
まだ机につけたままの神波の指をピンと弾いて、星野は言う。
「うちに入る気はないか」
「え?」
「ほ、星野さんっ」
思い掛けない言葉に神波は驚いて星野を見た。情けない顔をしていた高久も星野の方を見遣る。
「せっかくの度胸を捨てるのはもったいないと言ってるんだよ。それに高久を利用しようとした頭も悪くない」
その言葉に高久はぐっと詰まった。
「無理にとは言わんが、このままエンコ飛ばして帰すのもつまらんと思ってな」
「.................」
神波は星野を見たまま黙り込む。星野は有無を言わさず続けた。
「名前を、聞いておこうか」
「.........神波、神波憲人といいます」
「いい名前じゃないか」
星野が笑う。神波は、腕を引いて体の横に下げると、頭を下げた。
「.........お世話に、なります」
「よし」
ふと部屋の奥で電話が鳴った。取りに行こうと一歩踏み出した神波の後ろの男を制して歩きながら言う。
「詳しいことはそいつらに聞きな。あ、高久、今日中に坊主」
「.........またですかあ......」
「預かりにならないだけありがたいと思え」
そう言って電話を取り、奥の方へ向かって行く。神波はその姿を見送った直後、思わず力が抜けてへなへなとそこへ座り込んだ。
「おいおいおい」
高久が近寄って神波の腕を掴む。お互いちょっとだけ睨み合って、それからへへ、と泣き笑いのような顔で笑った。
「よかったな、坊や.......おっと、神波、だったな」
人懐っこい顔で高久は笑って言った。
「高久.......さん、ですね」
「おうよ」
高久は急に元気になって言うと、後ろを見遣った。
「こっちが、半田さん。うちの情報屋」
「命拾いしたな、二人とも」
半田と紹介されたその男は、眼鏡の奥の眠そうな目を細めて言った。
「それからもう一人いるんだけど........そういや遅いな、大原」
「そっすねえ」
半田と高久が言った瞬間、引き戸のドアがガラリと音を立てて開いた。外からビニール袋を下げた青年が入って来る。
「ただいま戻りましたあ」
座り込んでいる神波と目が合う。
「おお、ゴクロサン」
星野が電話を終えて戻って来て青年に言った。
「今日からうちに入ることになった、神波だ。神波、こいつは大原。うちん中じゃいちばん下だ。お前もこいつと同じ仕事してもらうぞ」
「神波......憲人です」
「あ、大原、隆、です」
「なーんかこいつら似てやんの、年同じくらいじゃねえの?」
高久が面白がって言う。お互い年を聞くと本当に一緒だった。
「ちょうどいい、大原、お前のうち一部屋空いてたろ、こいつ連れてってやんな」
「あ、はあい」
「後でうちの元締が来るから。それまでにいろいろ聞いときな」
星野は言うと、神波の頭を拳で軽くこつんとして半田を促して外へと向かう。半田は高久と大原に何事か指図をして星野の後について出て行った。
「憲武さん最近よく来ますね、忙しいはずなのに」
「あれだろ、また例の、石橋んとこのだろ」
「ああ、やっぱし」
聞き覚えのある名前に、神波はどきりとする。
『石橋の組のやつっすよ』
ここは、その『石橋』と敵対しているのだろうか?
気になったが、そんなことをまだ聞ける立場ではない。神波はゆっくりと立ち上がって大原に笑いかける。
「そういうわけなんで、よろしく」
「こちらこそ」
丁寧に言葉を返して、少年のような瞳で大原は笑った。いちばん下とはいえとても極道に関わる人間とは思えない。
(それが『お前みたいなやつ』ってことなのかな)
神波はふとそんなことを思う。にかっと目を細めて笑った神波に、高久は訳知り顔で言った。
「よかったなあ坊や、家が出来たぜ」
「坊やじゃないって言ってんじゃないですか!!」
神波はこの日、久し振りに心から笑った。