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「.......ってえ」
痛む体を引きずって、神波は誰もいない事務所のような倉庫を見つけた。とにかく体を休めたかった彼は裏口から勝手に入り込んで錆びた水道に直接口をつけて水を飲む。いかにもな鉄の味に顔をしかめて荷物からタオルを取り出してそれを濡らし、殴られた顔に当てる。ついでに汚れも拭き取って、そばのソファーに寝転んだ。
『お前みたいなやつのいるところじゃない』
さっきのスーツの男に言われた言葉を思い出す。
「........お前みたいなやつって、何だよ........」
神波に絡んで来た男達も、スーツの男も、間違いなく「その筋」の世界の人間だった。そしてどうやら先程の場所は『石橋』という組の縄張りで、スーツの男はかなり力のある人間に付いているらしいことも神波に理解できた。
ここは、そういう街だと言うことも。
『お前みたいなやつ』
「俺には似合いの街じゃねえかよ」
暴走族に入って、少年院に入って。セオリー通りのコースだ。あげく家族に見放されて世間にも見放された。もうどうせ真っ当になんて生きられない。それならこの街で生きて行くしかない。もう行くところなんてない。きっとこれが運命なんだ。
「.......ちっくしょ、ぜってー生きてやる」
さっきまではあんなに自暴自棄になっていたのに、何故か突然気力が涌いて来た。
殴られたり蹴られたりした場所が痛むが、それが「生きている」という感触を神波に感じさせる。俺は生きている。まだ死んじゃいない。いや、死んだりなんかするものか。
自分を物のように足蹴にしたさっきの奴等。哀れみの目で自分を見たスーツの男。自分を突き放した家族と世間。見返してやる。絶対見返してやる。一度は死んだも同然だ。ならば、何だって出来る。この街で生きてやる。生きてやるんだ。
「やられっぱなしでいられるかってんだ、ちくしょう」
いつだってやられたらやりかえしてきた。族でも、院でも。小柄な自分を買い被ってやって来る奴等は思い掛けない反撃に面喰らっていたっけ。そうだ。やりかえしてやる。
いつか、いつかきっとあの3人に思い知らせてやる。今は力がないけれど、いつか必ず仕返ししてやる。そして、あのスーツの男には、渡されたハンカチを叩き付けてやるんだ。
神波はポケットの中の、見たことのないブランドのシルクのハンカチをぎゅっと握りしめる。これよりもっといいやつを、そうだ、札束とでも一緒にこれを叩き付けてやる。
「......俺はどんなやつに見えたんだろう」
『お前みたいなやつ』がいる場所じゃないと彼は言った。じゃあ、俺みたいなやつがいるべき場所とはどこなのか。ここはどんなやつならいてもいい場所なのだろう。
ずきずきする腹を押さえながら神波は考える。が、そのうちに体を休められた安心感でそのまま眠ってしまった。
「.......」
ふと、話し声がして神波は目を覚ました。ソファーから少しだけ顔を上げて声のした方を見ると、数人の男達が何事か話しているのが見えた。やはりいかにもな風体をしていて神波はどきっとして顔を下げる。見つかりはしなかったかと体を縮めるが、どうやら大丈夫らしい。またそっと、顔を上げて気付かれないように様子を覗き見る。
話している内容はよく聞こえなかった。だが、映画か何かで見たようなジュラルミンケースとトランクのやり取りがされていて、『取り引き』の現場なのだと、まるで神波は秘密裏に忍び込んだ刑事のような気持ちでそれを見ていた。そして万が一見つかったらどうしようかと、さっきまでの意気込みはどこへやら、途端に不安になってくる。
「......それじゃあ、確かに」
「おお、例の件、宜しく頼むって、木梨さんから」
「承知したと伝えてくれ。それから、これ」
トランクを受け取った方の男が自分の従えて来た若い男から酒の瓶を受け取り、ジュラルミンケースを持った小柄な男に差し出す。途端にその男はニコニコと笑って相手の肩をばんばんと叩いた。
「おっ、悪いねえ」
「........その代わり傘下の話はくれぐれも」
「分ーかってるって、木梨さんに任しときゃあ問題ねえからよ、安心しな」
「......じゃ、これで」
調子よくからからと笑って言う相手に、眼鏡をかけた中年の男はちょっとだけ胡散腐そうな表情をしながら、顎で連れを促す。若い男はぺこ、と軽く頭を下げた。
「御苦労さん」
相変わらず笑ったままで2人を見送った男は、ジュラルミンケースを床において、懐から携帯電話を取り出した。程なくして会話が繋がったようで、電話の向こうの相手に頭を下げている。その姿に神波は声を出して笑いそうになるが、あわてて口を押さえた。
「あー高久ですー、受け取りましたあ........はい、伝えましたよ、はい、それから傘下の件をって。.....ええ、はい、じゃ直帰するっす、はい」
男は一気にまくしたてて電話を切った。ふとケースを持とうとして、傍らの酒の瓶を見る。暫くそれを見つめていたが、やがて誰もいないのに(本当は神波がいるが)辺りをきょろきょろと見回してから徐に瓶のキャップをひねった。
(おいおい、何だよあいつ、勝手に飲んでいいもんなのか?貢ぎ物を)
神波は思わず呆れてしまう。そんなことは知る由もなく高久という男はそのまま瓶に口をつけた。3分の1くらい一気に飲み干して気持ちよさそうに息をつき、口の端から零れた酒を掌で擦った。
「かーっ、やっぱ高え酒は違うよなあ、味が」
御機嫌なその声に神波は笑いを堪えるのが必死だった。高久はその場に座り込んで本格的に飲みに入ってしまう。緊張感から解かれた神波は音をたてないようにソファーから降りると、気付かれないように場所を移動してその様子を見る。
ジュラルミンケースが気になっていた。
ヤクか、金か。それとも重要な書類か何かか。中身はいろいろと想像を巡らされたが、大切なものには違いない。ふと神波に悪戯心が涌いてくる。いや、この街で暮らすための最初の度胸試しか。あの調子のよさそうな男からあれを奪って、売り捌くか。それともあいつを脅してみようか。体格はあまり変わらない。喧嘩になっても丸腰なら勝てる自信はある。それにカタギの人間を簡単に傷つけはしないとどこかで聞いたことがある。どうにかなるかもしれないと、神波は簡単に考えた。
突然わくわくしてくる。映画の主人公にでもなった気分で神波は体が痛むのも忘れて思わず笑みをこぼした。こんなに気分が高揚するのは久し振りだ。
あっという間に瓶を開けてしまった高久は、その場に寝転んでそのまま寝てしまっていた。こんなんでよくやっていけるなと神波は見たこともない男の上司に少しだけ同情する。が、はやる気持ちを押さえると、ゆっくりと、足音をたてずに男との距離を縮めた。スースーと寝息が聞こえる。その気持ちよさそうな顔を見ながら、神波はケースに近付いた。さすがに心臓が耳元にあるかのようにどくどくと大きな音をたてる。
す、と手を伸ばしてケースを掴んだ。高久は気付かない。忍び足でまた神波は自分のいたソファーへと戻った。音をたてないようにそっと、ケースの蓋を開ける。
「あ.....」
思わず声が出て神波ははっとして口を押さえるが、高久はまだ気付かないで眠っていた。首を伸ばしてそれを見、ほっとため息をつくと、またケースの中身をまじまじと見る。考えていた通り、中には白い粉の入った透明の小さな袋がぎっしりと詰まっていた。
(なんだろこれ、俺ヤクはやったことないから分かんないなあ)
さすがにいきなり中身を確かめる度胸まではなく、神波はその袋を摘んで考える。そしてそれを戻してまた蓋を閉めると、高久の方を見た。
(さあ、どうしようか)
あいつを起こすか、それとも起きるまで待ってなくなったのに気付いたところを脅してみるか。少し考えて神波は後者を選んだ。頭の中でシュミレーションしてみる。
(........生きてやる。もう何も恐くはないんだ)
その思いだけを胸に、神波はケースを抱えて高久をじっと見つめた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。神波が気持ちよさそうに寝込んだ高久の脳天気さにいらついて来た頃、ようやく間抜けな声を上げて高久は目を覚ました。大きく伸びをする。そしてふと、傍らにジュラルミンケースがないのに気付いて、彼は慌てた。神波はにやりと笑う。
「おいおいおい、シャレんなんねえって」
ばたばたと動き回って自分の転がした酒の瓶につまづいている。笑いたいのをこらえて、神波は側にあった空き缶を彼の頭めがけて投げ付けた。
「あいてっ」
突然空間からやって来たそれに高久は面喰らう。相変わらずきょろきょろ辺りを見回している彼に、神波は声をかけた。
「何探してんの?」
高久はびくっとしてこちらを見た。やがて神波のあぐらの上に置かれたケースを見て大声をあげる。
「ああああああああ!!お前、何持ってんだ!!」
「あ、探し物って、これ?」
「てめえ、返せよっ」
慌てて飛んで来た高久を小柄な体を駆使してさっと避ける。酒のせいで足下の覚束ない高久はよろめいてつんのめった。そんな彼をくすくす笑って見ながら、神波は切り出した。
「ねえ、取り引き、しない?」
「と、取り引き、だと?」
「そお」
神波はひょいっとソファーの上に乗って、ケースをぶんぶんと振り回す。
「俺にこん中のやつ少し分けてよ、どっかで売り捌いて来てあげるからさあ」
「ば、ばっかやろ、そんなこと信じられっか」
「大丈夫だよー、ばっくれたりしないって」
「ざけんな、トーシロにそんなん任せられるか、返せよほら」
「.......酒飲んじゃったのばらしちゃうよ?」
その言葉に高久はぎくっとした。ちっと舌打ちして情けない顔で改めて神波の顔を見る。
「........お前、一体いつからここにいた......?」
「ずっと」
「........あー........」
高久はぼりぼりと頭を掻いた。何度も首を捻ってまいったなあと呟く。
「どうすんの?」
「わあったよ」
神波の誘いに高久は仕方なく投げやりに言葉を返した。
「でも俺だけじゃ決められないから、例え酒飲んだのばらされても」
「.......ふうん」
「だからちっと待ってな」
高久は後ろを向いて携帯電話を取り出すと、小さな声で会話を始める。
「....あ、高久ですけど、実は..........」
途端に神波にも聞こえる程の大きく鋭い声で高久を怒鳴る声が聞こえた。彼は思わず電話を耳から離し、そして申し訳ない程小さくなって電話の相手に頭を下げている。
「.........は、すんません、はい、...........はあ」
ちょっとだけ神波はこの高久という男が可哀想になった。高久はというと相変わらず体を縮こませて喋り、ちら、と神波の方を見る。
「ええ、はい、それじゃ連れてきますから........えええっ?........分かりました.....はい.....」
高久は力なく頷いて電話を切り、ため息をついて神波を促した。
「ほれ、じゃついてきな、うちの兄さんが交渉してくれるってよ」
「さっき何怒られてたの?酒飲んだのばれたの?」
「........お前の知ったこっちゃねえよ、ほれ、ついてきな」
神波はむかっとするが、やがて自分の荷物を担いで高久について歩き出した。
「お前何だ?家出少年か?」
「.........家なんかねえよ」
「.......ふうん、名前は」
「神波。神波憲人」
「俺は高久誠司だ。ここいらを二分してる木梨組ってとこの下っぱ」
「木梨........」
さっきの3人組の言葉が蘇った。
『石橋の組のやつっすよ』
ということはあのスーツの男とは関係ない。それともここいらを二分しているってことは関係あるのかな。
神波は考えながら歩いた。その様子を高久が横目でそっと見ている。
しばらく歩くと、見た目には全然まともな構えの、普通の平家が見えて来た。
「ほれ、入んな。ここだよ」
高久は扉の前で一歩引いて神波の方を振り向いた。ぎゅ、とケースを抱える。その様子に高久がにやにやと笑った。
「びびってんのか、坊や」
「.......神波だって言っただろ、びびってなんかねえよ」
ぐっと高久を見返す。彼はまた笑って先に扉に手をかけた。ガラ、と引き戸のそれを開ける。
「連れて来ました、星野さん」
高久は言うと、いきなり神波の背中を強く押した。押し込まれて神波はよろける。後ろでぴしゃりと扉が閉まるのが聞こえた。そして目の前に人影が立つ。
「........兄ちゃんかい、うちの品物売り捌こうってのは」
今までに聞いたことのない、高久とも3人組ともスーツの男とも全然違う、低い、通った声がする。神波はゆっくりと顔を上げた。
茶色の髪の、冷たい目つきの男が立っていた。