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その日は快晴だった。
ひとり先に火葬場に着いていた成井は、幾人かの足音に振り返る。シュウと平山に続いて石橋がゆっくりとこちらに向かってきた。
「準備は終わってんのかい」
「ええ、それはいいんですけど、もう1人...いや2人来るんです。ちょっと待ってて下さい」
「もう2人?」
「ひろ美が、迎えに行ってますんで」
石橋の問いに成井は答え、入り口を見遣る。程なく白いワゴンタクシーが止まって中からひろ美と車椅子に乗った少女が現れた。少女はもちろん、飯塚生臣の妹・理恵である。成井はシュウと平山の間を抜けて彼女達に歩み寄った。
「悪かったなわざわざ」
「んーん、なんてことないわよ。ただちょっと理恵ちゃんの衣装見つけるのに手間取っちゃって。時間大丈夫かしら」
「ああ、問題ない」
ひろ美に軽く返してから、成井は理恵に視線を向ける。
「こんにちは」
「やあ。身体は平気?」
「はい、なんともないです」
「あそこにいるいちばん大きい人が、貴明さんだよ」
成井の後を、理恵はひろ美に車椅子を押されて進んで行った。3人の前まで来ると、理恵は支えようとするひろ美を制して立ち上がる。
「ジェリーの....」
成井が理恵を紹介しようとすると、理恵はそれを遮った。
「成井さん、私自分で言います」
「....ああ」
成井は半歩後ろに下がる。
「飯塚、理恵です。今日は、兄のためにありがとうございます」
理恵はそう言って頭を下げてから、シュウと平山を見た。
「シュウさん、いつも兄を助けて下さってたと聞きました。ありがとうございました」
「いや....俺は特に何もしてないけど。楽しかったよ」
「平山さん、冷静に兄を見て指導していただいて、感謝してます」
「.....御悔やみを、言うよ」
二人の言葉を聞いてから、石橋に向き直る。ポケットに手を突っ込んだまま鋭い目で自分を見つめる石橋を、理恵は気丈にも真直ぐ見返した。
「長い間、兄がお世話になりました。兄の力を買って使って下さって、何度お礼を言っても足りません。御挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。私が、こうして立っていられるのは兄の、皆さんのお陰です。本当にありがとうございました」
「ああ。御苦労だった」
石橋はそう言って理恵を上から下までざっと見てから、緩く笑う。
「ジェリーがくれた命を、無駄にすんなよ」
「はい」
成井はちらりと石橋を見た。石橋の口からそんな言葉が出るのが意外だったようだ。しかしそれだけで特に何も言うことはなく、理恵を見、石橋の方を向く。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
6人は白い建物の中へ入っていった。そのいちばん奥の部屋の前に火葬場の役員が立っていて、成井達を見て軽く礼をする。成井の目礼を確認して、役員は重いドアを開けた。少しひやりとした空気が辺りを包む。
正面に、上等の桐で出来た大きな箱。
「.........」
理恵はその、最愛の兄の眠る棺を目の当たりにして一瞬眉を寄せる。
「理恵ちゃん」
「.....大丈夫、です」
「ちゃんと見てあげないと、ダメだよ」
成井はそう言って理恵の肩をぽんと叩くと、ひろ美に理恵を任せて中の係員の元へ近付いていった。年老いた係員と成井が話すのを聞きながら、理恵達の斜め後ろにいた平山がかけていたサングラスをゆっくりとはずしてポケットにしまう。シュウは少し驚いてそれを見た。初めて会った時から、シュウは平山がサングラスをはずすのは滅多に見たことがない。サングラスは彼が元いた世界と決別するためのものだとシュウは勝手に解釈していた。
「平山さん」
シュウは小声で平山に話し掛けた。
「珍しいですね。それ、はずすなんて」
「....ああ」
細い目をさらに細めて、平山は微かに微笑む。
「ジェリーを見送るのに、こんな壁があっちゃいけないだろうと思ってね」
「.......」
やがて成井が戻ってきて、全員の顔を見る。
「じゃあ、ジェリーに別れを。誰から行きます?」
「俺が行くよ」
一歩踏み出したのは平山だった。成井は黙って道を譲る。かつかつと靴の音を立てて棺へ向かうと、平山は何か決意するように一度天を仰ぎ、それから棺に横たわったジェリーを見下ろした。
綺麗に整えられたジェリーの顔。その、端正な眉はもちろんぴくりともせず、印象的な大きな瞳ももう開くことはない。
「ジェリー」
すまない。
平山は心の中でジェリーに向かって呟いた。
ジェリーは昔の自分とよく似ていた。あとさき考えずに暴走する。時々かっとなる。情にもろいところもある。殊に自分の大切なものに関しては、例えそれが自分を滅ぼすものだとしても。だからジェリーを見ているといらつくこともあったし、羨ましいとも思った。自分はとうの昔にそれを押し込めてしまっていたからだ。しかしジェリーは思いのままに進んだ。それが彼の生き方だったから。成井が自分のために、シュウが運命のために意志を貫いているならば、彼は組のために妹のためにその意志を全うし、そして、散った。
石橋や成井、あるいはシュウさえもそんなジェリーの生き方は滑稽だと思うかもしれない。平山だけはそうは思わなかった。平山は、自分がこの世界でなんとか生きていられるのはジェリーのような生き方に背を向けて情熱を押さえ、静かにしているからこそだと思っていたからだ。ジェリーが、身を持ってそれを教えてくれたような気がしたからだ。
そして平山のもうひとつの負い目。何より、ジェリーではなく自分が星野に向かっていたらこうはならなかっただろうし、もしかして自分が逆の立場にいたかもしれないということ。あの時、あの往来で神波にさえ出会わなければ。自分と同じく何も分からないままこの世界にやってきた男を知らなければ。
でも。
ジェリーなら、分かるだろう?これが、俺の生きる道だよ。
平山は棺の手前へ向かうと、時間をかけて焼香を終えた。去る前にもう一度呟く。すまない、と。声には出さずに。言葉の音にしてしまうには石橋達が見守るこの場ではセンチメンタルすぎるし、何よりそれこそがジェリーにすまない気がしたから。
平山が戻ったのを見届けて、シュウがジェリーの元へ向かった。いつもと変わらぬ表情でジェリーの眠る顔を見つめる。
「.............」
シュウも成井とは別意味でジェリーと対照的だった。妹のために自らを賭けるジェリーと、かたや産まれ落ちた瞬間からの運命に逆らえず、自らを賭けるシュウ。物心つく時期にはシュウは自分の背負った運命も使命も理解していたし、それゆえ自分のしなければならないこと、するべきことに疑問を持ったことはなかった。しかしシュウは以前成井がジェリーに言った「スイッチ」の切り替えに関してなら多少ジェリーや平山に近いものを持っていたかもしれない。石橋や成井のように人間らしい感情を捨てたわけではなく、もともと持つことを許されなかったのだから。
その自分に石橋を護ることと同時に与えられたのは、自分とは対照的な彼・ジェリーを後ろから援護すること。任務上ジェリーのような人間とはつきあうこともなかったから最初は訝しんでいたシュウだったが、彼を後ろから見ているうちにその気持ちはだんだんと薄らいでいった。もちろん、だからといってジェリー程人間らしくなったわけでもなかったが。
成井はもともとああだし、平山でさえ任務のためであれば人らしい感情を押し殺しそれだけのために行動する(まあ神波という特例はあったりしたわけだが)。その殺伐とした中でもいつでも普通に接してくるジェリーのことが、シュウは嫌いではなかった。仕方ないことではあるが暗殺者の名を重く背負って生きていくことから一瞬でも逃れられるのは、ジェリーとの瞬間だけだったかもしれない。
シュウはジャケットの内ポケットから煙草をひとつ取り出した。仕事の関係上現場に自分のいた痕跡は残せないため、彼は滅多に煙草を吸わない。吸うことがあっても仕事の前にそれは完全に消してゆく。そして、その煙草をシュウは人にあげることも滅多になかった。
ジェリーに何度もかすめとられた煙草。決して油断していたわけではなく、それでも友好的な取り引きだったわけでもない。しかし不機嫌そうにしながらもそれをとめることはシュウはしなかった。
「全部くれてやるよ。ゆっくり味わいな」
ぼそりと言ってそれをジェリーの胸元に置く。それから焼香を済ませて足早にもといた場所へ戻った。入れ代わりに成井が向かう。
成井は棺へ歩み寄ると、表情を変えずに指先でついとジェリーの冷たい頬に触れた。
『飯塚です、通り名がジェリーっつーんでそう呼んでください。石橋さんの片腕なんですよねー?』
『どうして抵抗しない奴まで殺っちゃうんですか!』
『凄いっスねー、ほんと凄いですよ、成井さんて』
『俺、成井さんがいたら一層頑張れますよ!嬉しいです、帰って来てくださって』
『あなたは理恵にとって憧れなんです、王子様なんです』
『理恵のために、俺には言うことの出来ない言葉を』
『愛していた....と......強く生きろ、と.......』
初めて会った時から先日の最期を看取るまでが頭の中に蘇って来る。金と引き換えに、自分と同じように石橋に腕を見込まれてやってきたジェリー。最初のうちはあまりの成井の非情さに衝撃を受けていたが、それでも心から成井を非難することはなかった。生き方は違えど彼も自分が貫きたい意志のためには、自分が信じた道のためには他全てを犠牲にすることを本能で分かっていたからだ。平山には分からない成井の信じるものを、そう言った意味で理解していたのかもしれない。だから彼は寧ろ組より石橋より、「成井一浩」のために全力を尽くした。それは果たして成井の評価としてはどこまでの出来だったかは分からないが。
100点は無理だけどな、最期だからせめて80点くらいはやるよ。
「じゃあな、ジェリー」
成井は一瞬笑みを見せて言い、すぐに表情を戻して焼香を終えて戻った。石橋を見る。
「貴明さん、どうぞ」
「ああ」
頷いて大股でゆっくりとジェリーの前に立つと長い時間その顔を見つめ、それから何も言わずに焼香を済ませた。シュウは、そして平山は以前自分が経験したように石橋がジェリーの死に対して理恵の目前でどんな辛辣な言葉を吐くかと内心ひやひやしていたが、それが意外にも何もなく、ほっとして思わず小さく息をつく。それを横目に成井は理恵に視線を移した。
「理恵ちゃん、どうぞ。あそこまで大丈夫?」
「一浩」
兄の死と術後間もないためにふらつく身体で車椅子から立った理恵を支えながらひろ美は成井の方を見る。
「ついでと言っては失礼だけど、つきそいついでにあたしもお別れさせていただいていいかしら?」
「.....理恵ちゃん、いいかな」
「お願い、します。ひろ美さん」
「じゃ、つきそってやって」
「分かったわ。ありがと、理恵ちゃん」
理恵は身体を支えられながら棺に向かい、兄の前に立った。
「ジェリー。妹のために毎回気張ってかっこつけてと思ってたけど、あんた、最期までかっこよかったわよ。またどこかで会いましょう」
そう別れを告げてひろ美は一歩下がる。理恵が眠る兄の顔をじっと見つめて、長い沈黙の後、しっかりとした声で兄を呼ぶ。
「.......お兄ちゃん」
初めて、理恵は涙を零した。
「もう、私を呼んではくれないのね。私もお兄ちゃんを呼ぶことはないのね。私、お兄ちゃんのお陰で手術頑張れたわ。もう、治ったの。分かる?」
ぽろぽろと涙が棺の中に落ちる。それでも理恵は自分の足で立っていた。ジェリーにその姿を見せるように。
「お兄ちゃん」
ふたりきりになって、必死で自分を育ててくれたこと。徹夜で看病してくれたこと。痣だらけの身体で病院に現れて、自分を心配させまいと必死に『たいしたことないよ』と笑っていたこと。元気づけようと成井を連れて来てくれたこと。理恵、といつも優しい声で自分を呼んでくれたこと。
全て忘れない。
ありがとう。
私に、命をくれて。私を、愛してくれて。
やがて理恵は屈んでジェリーに顔を近付けると、側にいるひろ美にしか聞こえない程小さな声で囁いた。
「大好きよ」
それから顔をあげ、ポケットから一枚の紙を取り出してシュウの煙草の横にそれを置く。成井が理恵にあげたあの薄い紙だ。涙も拭わずにそのままひろ美を見て別れを終えたことを告げ、去り際に一度だけ振り向いた。
「さようなら、お兄ちゃん」
ゆっくりと焼香を終えると、そこで理恵はやっと涙を拭いて車椅子に座る。成井は部屋の隅にいた係員に向かって頷いた。棺が閉じられ、隣に続くドアが開けられてその瞬間へ向かって準備が進められてゆく。
もう、彼を見ることはできない。あの太陽のような笑顔も、凛々しく引き締まった目つきも、小柄な身体でさっと相手の懐に飛び込む勇姿も。
棺が所定の位置に納められ、ついにガシャンと鉄の扉が閉められた。
煙となって高い空へ昇ってゆくジェリーを、6人は静かに見つめる。
もう、理恵は泣かなかった。