6
「神波」
「あ、おはようございます」
事務所に入ったところで星野が声をかけて来た。
「おう。来たとこ悪いが、これ買い出し行って来てくれるか」
「はい、分かりました」
メモを受け取ってそれをポケットに入れる。ふと、手にこの間のハンカチが触れて動きをとめると、それをめざとく見ていた高久がにやにやして肩に手をかけてくる。
「.......返すチャンスがやって来たなあ、神波くん?」
「高久さん!」
「いいじゃねえかよ、結構かわいいぜ?それともああいうのタイプじゃねえか?」
「や、タイプも何も俺女って話した機会もないし.....つーか何言わせんですか」
神波は少し赤くなって高久の腕をはずす。
「まあまあさっさと行ってきな。これを機に何か話してこいよ」
バシッと叩くように押されて、神波は背中をさすりながら引き戸を開けた。
「じゃあ行って来るっす」
「おーゆっくりしてこいよ」
楽しそうな高久の声を振り払うようにドアを勢いよく閉める。おー怖え、と高久は大袈裟に驚いて仕事に戻った。
ガラ、と戸を開けると、棚の向こうで品出しをしていたみきが顔を出した。神波の姿を認めてあ、と立ち上がる。
「........いらっしゃい」
「あ、ど、ども」
高久にこの間言われた言葉が蘇って来て、神波は急に鼓動が高鳴り出すのを感じながらゆっくりとみきに近付いた。ポケットからメモとハンカチを取り出す。
「これ。.......あと、ハンカチ、ありがとう」
「はい」
みきは笑ってそれを受け取る。メモを見てから棚を見上げ、エプロンのポケットにハンカチをしまおうとして、ふと綺麗に洗ってたたんであるそれに気付いて神波に向き直った。
「これ、洗ってくれたんですか?別によかったのに」
「いや、でも汚しちゃったから」
「なんか、余計な手間かけさせちゃいましたね、ごめんなさい」
「そんなことないよ」
どう対応していいか分からずに、わざとぶっきらぼうに返してしまう。そんな神波の態度も気にせずにみきはメモに書かれた品物を探しはじめた。
「ああ、毎度どうも、神波さん」
所在なげに突っ立っていた神波に、奥から出て来た冨永商店の一人娘・聡子が声をかける。神波は少しほっとしてお辞儀した。
「あ、こちらこそ」
「なんか、みきがこないだお世話になっちゃったそうで。すみませんねー」
「いいえ、結局星野さんが助けてくれたし」
「でも最初に助けてくれたのって神波さんなんでしょう?」
「うん、まあ」
「こんなとこだからしょうがないけど、気をつけてもらってるんだけどね。ほんとにありがとうございました。みき、ちゃんと礼言った?」
「言ったわよ」
棚の向こうに回ったみきが返事を返す。
「ほんとはもうちょっと安全なとこに住んでもらえばいいんですけどねえ、あのコ、学生だからお金ないし。この辺て安いからね。やめてもらっても困っちゃいますし」
「そう思うなら時給上げてよ」
「それはお父さんに交渉して」
二人の女の子が談笑しあうのを神波は笑って聞いていた。
「あれ、さっき神波の声した気がしましたけど」
トイレから戻って来た大原が書類の整理をしていた高久に言う。
「ああ、買い出し行ってるぜ、冨永さんに」
「あ、そうっすか」
「うまくやってっかなあ、あいつ」
そう言って楽しそうに笑った高久を、大原は不思議そうに見た。
「うまくって?」
「こないだ神波が助けたコいたろ、みきちゃん」
「ええ」
「どうもあのコ神波好きになったっぽいからさ、神波も意識してるし。ちょいとおいらがけしかけてやったのよ」
「高久さん神波からかうの好きですねえ」
大原が神波に同情しながらも笑って言うと、高久は手を止めて椅子に腰掛ける。ばーか、と大原を見上げながら言って背もたれに体重をかけた。
「そんだけじゃないんだぜえ?ま、確かにあいつ面白いけどよ」
少しだけ真剣な顔で高久は天井を見る。
「おいらはさ、あいつはほんとはこんなとこにいる奴じゃないと思ってる訳。大原もそうだけど、まあお前はしゃあねえか。族、ネンショウ、組入りなんて、セオリーまんまじゃねえか」
「はあ」
「偶然だか運命だかこんな街にやって来ちまってよ。神波は自分じゃあ家庭も家族もねえなんて言ってるけど、ほんとはきちんとした家の坊ちゃんじゃねえか。やり直そうと思えばいくらだって出来るんだ。おいらみてえなのとは違うんだから」
「高久さん.......」
「おいらはずっとフラフラしてっからよ、こんな生き方しか出来ねえ。だけどあいつは違うんだ。もっとまっとうに生きることだって出来るんだから。だからせめて恋愛くらい、普通みたく年相応にしてもらいたい訳よ、分かるか?」
そこまで言って勢いをつけて身体を戻すと、高久はまた書類をまとめながら言った。
「なんで世の中の親はこうもほいほい家族を投げ出すもんかねえ。ほれ、ちょっとこれ」
「........そうですね」
自分の父親のかすかな記憶を思い出して、大原はそう呟いて高久から机の上に散らばっていた書類を受けとる。高久は続けた。
「見た目いい割にゃあ女とつきあったことなんぞこれっぽっちも経験ないみてえだしな、神波。クラブのねーちゃんじゃあいつには荷が重すぎるし。ああいうコなら神波だって付き合えそうだしよ。お互い気に入ったらの話だけど」
「そういえばみきちゃんも、なんでこんなとこで働いてるんだってカンジっすね」
「だろ?これからどうなるかは分かんねえけど、なんつーか、神波にも少しは幸せ感じてもらいてえんだよおいらは。あいつがあの場にいたのがいいのか悪いのかはちっと判断しかねるけど、おいらのせいでこんなとこにいるんだからな」
「優しいんですね、高久さん」
「........お前もな。おいらはお前にも幸せになってもらいてえよ。木梨さんに恩があるのは分かるけど、だからって無闇に自分犠牲にしたりすんじゃねえぞ」
「でも、俺はそうすることでしかあの人に報いること出来ないですから」
「分かってる。分かってっけどよ」
高久は自分に言い聞かせるように繰り返して、珍しく真剣な顔を大原に向ける。
「いつかそういう時が来たらしょうがねえ。でもお前はまだ若いんだ。これから新しい家庭だって作れるかもしれねえ。ヤバいこた星野さんや半田さんや成井やおいらに任しときな」
「...........」
「.........なーんてな。ちっとマジになっちまったぜ」
へらっといつも通りに笑って、高久は立ち上がった。奥でパソコンに向かっている成井に声を向ける。
「成井、どう?」
「バッチリですー」
「やっぱ俺とはレベルが違うわ」
横で感心している半田に成井は笑った。
「これは俺の腕じゃなくて、俺があっちにいたからですよ。高久さん、2丁目の角の土地、こっちに貰えそうですよー」
「おう、ちょい見せてくれ。大原、悪ぃけどこれ、こっちに全部移してくれっか」
「あ、はい」
古い書物の束を渡して高久は半田と成井のいるデスクに向かう。3人がディスプレイを見ながら真剣な顔で話し合うのを、大原は少しの間見つめてから片づけを始めた。
季節の流れと同時に、神波とみきの間はゆっくりと近付いていった。
もともと顔だけは知った間柄。お互いが慣れるまでだけに時間がかかったが、高久や大原の気遣いで次第に二人は打ち解けた。大原は神波と一緒に行くと嬉しそうな表情をする彼女や妙におまけの多いことに気付いて、出来るだけ一緒に買い出しに出かけるようにしたり、高久が上手く手をまわして神波をひとりで行かせたり。ホステス相手にこそしどろもどろになっていた神波も、この街にそぐわない彼女とは普通に話せた。いくらちょっと普通とははずれた道を歩いて来たとはいえ、ここにいる中で神波だけが普通に近いことを、普通の生活を知っていることを誰もが分かっていたから、せめて少しでもそこに戻してやりたいと思っていたのだ。
「どうなの?仲は進行してるの?」
「ええっ?」
成井にそんなことを言われて神波は驚く。
「や、仲だなんて、店で会った時にちょっと話すくらいだし......」
「何だ、向こうは神波のこと好きなんでしょ?意思表示しないとダメだよ」
「.......はあ......」
「神波だって好きなんだろ?」
「いや、えと、そんな」
「なーんだ、ハッキリしないと可哀想じゃない、彼女」
「...........」
「族いた割に度胸ないなー」
「.......そんなことないですよう」
口を尖らせて神波は成井を見上げる。
「女の方から誘うなんて普通は出来ないんだからさ、神波から言わないと」
「だって、断られたらこれから行きづらいじゃないすか」
「そこが度胸ないって言うの。お互い好意あるんなら平気だって」
「うーん........」
照れて黙り込む神波を見て成井はくすくす笑った。
「俺の女みたいに向こうから誘ってくんの待ってんの?男らしくないよー。まあ、俺の場合は別に待ってた訳じゃないけどさ」
「成井さん、彼女から誘われたんですか?」
「まあね、結構気ぃ強いから。でもそれはそういう世界の女だから出来ること。その彼女はきっと待ってるよ、神波から言われるの」
「成井、神波をあんまいじめるなよ」
「だって焦れったいじゃないですか」
星野に嗜められて、成井は笑いながら言う。
「確かにそうだけどな。ま、よく考えな。ちったあ自分の為に度胸試ししてみろよ」
「ちぇ、みんなでよってたかって面白がるんだから」
窘めながらも楽しそうに自分をけしかける星野を見て、神波はむくれながらそう呟いた。
「成井のお陰でちっと暇出来たからよ、休みの予定でも聞いてきな」
「え......いいんですか」
「おう、慣れないことよくやってくれてるからな、お前にも休みやんねえと」
遠慮がちに言う神波の肩を星野がぽんと叩く。
「ぱっと決断するのが男だぜ」
「.......じゃ、じゃあ、これからちょっと、行って来ます」
「おー男らしー」
「頑張れよー少年」
声に押されて勢いよくドアを開ける。ふと立ち止まって振り返ると深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございます!」
そう叫んで走って行く。クックッとおかしそうに高久が笑った。
「族気質って抜けないんすかねえ、面白え奴」
「まあいいじゃねえか、礼儀がないよりはよ」
「そうっすねえ」
「.......つかの間だ。楽しんでくりゃあいいさ」
星野のその言葉に、高久は少し辛そうに笑って開け放たれたドアを静かに閉める。各自が仕事に戻るのを見て、星野は半田を追って奥の部屋に入って行った。
「どうだ」
「確かに完全に切れていますね。向こうは今までなかった小競り合いが起きてるようです。死者までは出ていないようですが」
「そうか」
「石橋は最近じゃすっかり影に隠れてるようです。裏から手をまわしてどうにかしようとしてるみたいですね。それも成井からデータを貰って来ました」
「よし、問題ねえな」
「そうっすね」
「悔しいが、確かにレベルが違うなあ?ええ半田」
「しょうがないですよ、憲武さんのためならそれで良しとしましょう」
「........そうだな」
やがて戻って来た神波はみきと約束を取り付けたことを照れながらも嬉しそうに告げる。5人と、珍しく顔を出した木梨に神波はめいっぱい突つきまわされた。