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「教昭」
「ん?」
「そろそろ彼、助けてあげたら?」
舞が星野に言いながらテーブル席を見遣る。やって来てからずっと質問責めの神波は、ホステスに囲まれて小さい身体をもっと小さくしている。大原が横にはいるものの和恵との話に夢中で助け舟も出さない。星野はくっくっと楽しそうに笑った。
「あーあー、すっかり小さくなっちまって」
高久が苦笑しながらそう言うと、星野も面白そうにその様子を見ながらもキイ、と椅子を鳴らして向きを変える。
「まああれはあれで面白いけどな、そろそろ戻ってもらうか。半田と成井、解放してやんねえといけねえし」
座ったままテーブルに声をかける。
「悪ィなあ、ねーちゃん達そろそろ神波仕事だから」
「えー、もう帰っちゃうのおー?」
「もうちょっといてもいいじゃなーい」
「こらこら、我侭言わないのよ」
残念そうに言うホステスを舞が窘めた。星野はぎしと椅子に体重をかけて、高久に差し出されたライターで煙草に火をつける。
「また連れてくっからよ、今日は顔見せっつーことで勘弁してやってくれや。神波、そういうことだから戻って半田達と交代してくれるか」
「あ、はい、分かりました」
神波は少しほっとしたように立ち上がった。
「あの......じゃあ、また来ますから.....」
その言葉にホステスから嬌声があがる。
「かーわいー」
「そんなことわざわざ言わなくてもいいのにい」
真っ赤になりながら神波が差し出される名刺を受けとってテーブル席を出ると、星野がにやにや笑いながら神波の肩をばんばんと叩いた。
「これから大変だぞお前」
「は、はあ......」
「もうちょっとしたら俺らも帰るからよ」
「あ、神波、俺も......」
和恵の腰を抱いたままでそう言った大原を神波はどぎまぎしながら制す。
「いや、いいよ、折角だからもうちょっとゆっくりしてれば」
「ん、でも.....」
「和恵さん寂しがっちゃうよー」
「じゃあ大原俺らと一緒に帰ろうや、神波が折角言ってくれてんだから」
「......ごめんね、神波」
済まなそうな大原に神波は笑って、和恵に声をかけた。
「そんじゃ和恵さん、また」
「ごめんなさいね、ありがとう」
和恵は申し訳なさそうにしながらも大原に腕を巻き付けたままで言うのを見てあーあ、と呆れたように志帆が和恵を小突く。
「やってらんないわよねー、いっつもいちゃいちゃしてんだから」
「いいじゃない別に」
「あたし達いっつもあてられてんだから」
「高久さーん、あたしらヒマだからこっち来てー」
その声に高久が神波に腕を回して軽く力を入れながら笑う。
「高久さん痛いですってば」
「いい思いしてんだからこんくらい我慢しろっての。ちぇ、おいらは神波の代役かよう」
「呼ばれるうちが花よ」
「へいへい」
そう言いながらも高久は嬉しそうだ。なんとか腕を抜けて神波は星野と舞に向き直る。
「じゃあ、失礼します」
「おう悪いな、もうちょっとしたら行くからよ」
「また来てね、神波くん」
「ありがとうございます」
「また来てねえー」
ホステスの声に押されながら、神波はドアを開けた。
遠くから犬の遠吠えがする。薄暗いオレンジの街灯に照らされて、神波はなんとか覚えた事務所までの道を歩いてゆく。
「あ、やべ、煙草切らしてたんだった」
ふとポケットに手を突っ込んで神波は呟いた。辺りには自販機はない。仕方なく元来た道を少し戻っていつも買い出しに行っている店まで行って煙草をいくつか買う。ポケットに無理矢理突っ込んでそのうちのひとつを開けながらのんびりと歩いた。
と、脇道から声がして神波は立ち止まる。気のせいかと思いながら耳をそばだてると、何事か争うような声が聞こえた。火をつけたばかりの煙草を投げ捨てて駆け出す。
「.......誰かっ.....」
「誰も来やしねえよ、来いっつってんだろ」
「離してよ!」
女の子が大柄な男に絡まれている。神波は体格の差も考えずに飛び出して声を荒げた。
「おいっ、お前何やってんだ!」
「ああ?何だお前、邪魔すんじゃねえよ」
「嫌がってんだろうが、離してやれよ」
「うるせーな」
「きゃあっ」
鈍い音をたてて神波は顔を殴られてすっ飛んだ。女の子は持っていた荷物を落として声をあげる。神波は顔についた血と土を拭うと、その子に向かって叫んだ。
「逃げろ!早く!!」
「.........」
「お前いい度胸してんじゃねえか、俺に向かってくるなんてよ」
男はにやにや笑いながら神波を引き上げる。隙を狙って男の足に蹴りを入れると一瞬その身体が崩れた。
「.....てめえやりやがったな、何処の組のもんだ」
「木梨さんとこだよ!」
「けっ、お前なんかが入れる訳ねえだろうが」
笑って、神波の鳩尾にパンチを入れる。うっと呻いて神波はその場に崩れ落ちた。
「う.....あ......っ」
「ちょ、もうやめてよ!」
「.....逃げろ.....俺のことはいいから...っ.....」
腹を押さえて神波は言うが、女の子は怯えたままそこに立ちすくんでいる。明らかに劣勢な神波を置いていけず震えながら辺りを見回すと、やがて視界に人の姿を認めてそちらに向かって大声で叫んだ。
「お願い!助けて!!」
その声にいくつかの足音が急ぎ足でやってくる。
「神波!」
男に掴まれながら神波は振り向いた。
「あ.....星野、さん.....」
「........なんだ、水尾んとこのじゃねえか、こんなとこで何やってる」
男はぎくりとして神波を離した。重力で神波はその場に落ちる。
「.....ほんと、だったのか、木梨さんのとこだって.....」
星野がギロ、と男を睨んだ。
「うちの新入りが何かしたかい」
大原と高久が神波を抱き起こすと、男はじりっと後ずさった。
「あ、いえ、あの.....」
「目障りだ、とっとと消えな」
その星野の低い声に、男はちらりと神波を見ながらちっと舌打ちして走り去って行った。それを見遣ってから、星野が声をかける。
「大丈夫か」
「は....すんません.....」
「どした、絡まれたんかい」
「いえ、あの、そのコがあいつに絡まれてたんで.....」
切れた唇の端から流れた血を拭いもせずに神波は女の子を見た。相変わらず固くなったままで立ちすくんでいる。
「大丈夫かいお嬢さん」
「あ......あの.....ありがとうございます......」
「あれ、このコ.....」
大原が言うのを見て星野が不思議そうな顔をした。
「なんだ、大原知ってんのか」
「冨永商店のバイトのコですよ。えっと、なんつったっけ?」
「あ、え、えと、みき、です」
「そうそう、みきちゃん」
言われて神波も気付く。いつも買い出しに行く店の店員だった。
「あ、そういえば.....」
「なんだ、神波今気付いたんかい」
「はあ.....夢中だったんで......」
「それにしてもお前向かう相手考えろよ。まあしかしよくやった。あいつ、うちの傘下の人間だ」
星野は神波を見て笑う。
「あ、そうなんすか.....」
「この辺もちょろちょろいざこざが耐えなくてなあ、もうちょっと気ぃつけた方がいいな」
そう言って置き去りにされている女の子、みきを見遣り神波を顎でしゃくった。
「身体平気か?」
「あ、平気っす」
「じゃあこのコ送ってってやんな。高久、お前も一緒に」
「へい」
「あ、でも、すぐですから......」
みきが恐縮してそう言うのに、星野は荷物を拾ってやりながらにっこりと笑う。
「またああいうのが出るといけねえからよ。ま、この街じゃちったあしょうがないことだがな。それにまだあいつがうろうろしてるといけねえし。ほれ、神波」
神波に荷物を渡すと、星野は大原を促した。
「じゃあ俺らは先に帰ってるからよ、ちゃんと送り届けてやんな」
「はい」
「......すみません.....」
高久と神波の顔を順番に見ながらみきが小さな声で言うと、高久はからからと笑う。
「いいっていいって。お、神波、痛えのか?黙りこくっちまって」
「あ、いえ、大丈夫っす」
「......そうか、照れてんのか、お前女の子慣れてないもんなあ」
その言葉に神波はかあっと赤くなりながら叫んだ。
「たっ高久さんっ」
「おー図星。いいねえ、若いっつーのは」
「.......」
「んと、みきちゃんっつったな、ここどっち曲がんの」
「あ、えと、右です」
神波と並んで歩きながら、前を行く高久にそう告げる。そして顔を背けたままの神波に申し訳なさそうに声をかけた。
「あの......ほんとに....すみません.....」
「い、いや、いいけど」
「......神波さん、て言うんですね」
「....うん」
「いつも大原さんひとりだったのに最近いらっしゃるから、ちょっとだけ気になってたんです。木梨さんとこの方なんですね」
「.....うんまあ、最近お世話になって」
その後はお互い無言で歩き続ける。そんな二人を高久はたまに振り返ってにやにや笑いながら、でも冷やかしはせずに見た。やがて前方に何棟もの木造のアパートが見えて、みきが高久に言う。
「あ、ここでいいです。もうそこなので」
「おおそうかい」
「ほんとに、ありがとうございました」
「気ぃつけてな」
「はい」
「そんじゃ神波、帰るか」
高久が神波にそう声をかけると、神波は荷物をみきに渡してから何か言いたそうにしながらも歩き出した。その後ろ姿にみきが叫ぶ。
「あ、あのっ」
「何?」
「......これ、使って下さい」
ピンクのチェックのハンカチを神波に差し出す。
「え......あの......」
「お店にいらした時にでも返して下さればいいですから!」
強引にそれを押し付けてみきは走っていった。呆然と立ち尽くす神波を見て、高久が肘で神波を小突く。
「よかったなあ神波くん、お前にも春が来たぜ」
「ななななな何言ってんですか!」
「あれは、惚れたね、お前に」
笑って言って先に立って歩き出す高久を神波は赤くなりながら慌てて追いかけた。
「高久さん!」
「あのコにとっちゃお前はヒーローだぜ」
「だって結局助けたの星野さんっすよ」
「ばーか、分かってねえなあ。.....ま、いいや、そのうち分かるさ」
「........」
はぐらかすようなその物言いに神波は口を尖らせる。高久の後を歩きながらハンカチとアパートを交互に見て、その渡されたハンカチで口元を拭くと大事そうにそれをポケットにしまった。