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「一浩」
「ん?」
「あたしそろそろ帰るね」
「........あー、もうちょっとだから待ってろ。貴明さん、これ終わったら俺帰ってもいいですよね?」
ひとり仮眠室から出てきてそう言ったひろ美を成井が引き止めた。成井に問われた石橋はにやにやと意地悪く笑いながら二人を交互に見る。
「おやおやお熱いことで。いいぜ、お前向こうの休みもそんなにねえみたいだしな、面倒なこと引き受けてくれたからよ」
「明日はちょっといつ来れるか分かりませんけど、連絡はしますんで」
「分かった」
「ありがとうございます、貴明さん」
ひろ美が礼を言うと、石橋は軽く手を振った。
「今さらそんな礼言う間柄でもねえだろ。この通りまた暫く面倒なことが続くしよ、たまにはしっかり可愛がってもらいな」
「........やーらし」
くすりと笑って、仮眠室のドアをふと振り返って続ける。
「あと、ついでって言ったら何だけど、シュウさんまだお忙しいのかしら?」
その声にシュウが顔をあげた。成井が石橋を見、ドアの方を見遣った。
「京子も待ってんだけどな」
「シュウさん、発注の確認だけ出来ればもういいですよ、ねえ?」
「あーここにも幸せボケがいやがる。いいよ、帰れ帰れ」
「........俺はそんなボケちゃあいませんよ」
石橋の言葉にシュウがぼそりと反論する。しかしその顔は嬉しそうで、目もとに少しだけ笑みが浮かんだ。
「じゃああと俺やっときますから」
「そう?」
「京子ちゃん待たせちゃ可哀想だろ、俺らいればいいから行けよ」
遠慮がちなシュウに成井と平山が言うと、シュウは申し訳なさそうにしながらゆっくりと立ち上がった。石橋に頭を下げる。
「.......すいません、じゃあ、お先させていただきます」
「へいへい」
石橋はふんと笑って返事してからまた書類に目を落とした。
「じゃああたしお茶でも入れようかしらね、暇だから」
「あ、ひろ美さーん、俺カフェオレにしてくださーい」
「はいはい」
ジェリーの声を受けながら、ひろ美はシュウに笑いかけて肩をとんと叩く。ほっとしたように笑い返して、シュウはドアへ向かい、数回ノックした。
「京子」
「はあい」
「帰るぞ」
「ええっ?」
シュウの声に、内側からばたんとドアが開け放たれる。京子は石橋と、ひろ美と、シュウの顔を順に見て、伺うようにシュウを見上げた。
「いい、の......?」
「うん、許可出たからさ」
「いつも借りっぱなしじゃ悪いからよ、たまには京子ちゃんに返してやるよ」
相変わらずの石橋の意地悪い微笑。ひろ美があとを受ける。
「たまにはいいじゃないの、折角店も休みなんだしゆっくりしてきたら」
「.......すみません」
「いいから早く行きな」
「じゃ、お言葉に甘えて......京子」
シュウに促されて京子は仮眠室を出る。彼女が部屋のドアの前にたったところで、石橋が声をかけた。
「シュウ」
先程とは違う、いつもの石橋の声と顔。京子も思わず姿勢を正す。
「はい」
「御苦労さんな、毎度」
「.......いえ、これが俺の運命ですから」
シュウはそう言って京子の背中を押す。二人は深々と石橋に頭をさげてから、ドアを開けて出て行った。
薄暗い間接照明の中に、脱ぎ散らかされた衣服の影だけが浮き上がっている。甘い空気の余韻が残るベッドで、京子は身体をくるんだシーツを直しながらシュウに問いかけた。
「ねえ」
「んー?」
「今度こそ、ヤマ場なのね」
「...........ああ、話聞いてた?」
言いながら、真っ黒なストレートの京子の髪を指先でくるんと巻きとる。
「前線、あなたも久し振りじゃない」
「そうだな、俺はめったに前に出ないから」
「そうね」
ぽつんと返して少し俯き、すぐに何か思い直したようにシュウに笑いかけた。
「あたしは大丈夫よ、そんなヤワに出来てないから。.......最初から、覚悟してるし」
「.......ああ」
「もしあなたに何かあったとしても悲観したりしないから。いつでも、あたしより石橋さんを何よりも大事にしてちょうだい」
「もちろんそのつもりだ。俺達は、俺の家は石橋さんのお陰で、石橋さんのために生きてる。あの人を守って、たてることが俺の仕事だからな」
天井を見ながらそう言って、京子の肩を抱き寄せる。
「俺は悪運が強いから、そう簡単に死んだりしないよ。それに、死んででも石橋さんは守らないといけない。もし何かあったら、うちの家の真っ白なライセンスに傷がつく」
「うん......分かってる」
「石橋さんを守ることは、お前をも守ることだ。ちゃんと守るよ」
「............」
「今度こそ終わらせるさ、この堂々回りの抗争を」
一方、木梨は星野の運転する車で事務所へと向かっていた。
「ホッシー」
「はい」
珍しくきっちりとスーツ姿で決めた木梨は、ミラーに映る星野に問いかける。
「舞ちゃんと結婚しないの?」
「はいっ?!」
「何素頓狂な声あげてんの、もうつきあって10年以上になるんだろ?もう舞ちゃんもいい歳なんだし、そろそろ身ィ固めたら」
「............」
突然の木梨の問いに体全体で驚きながらも、もちろんしっかりハンドルは握って離さない。何か諦めたようにため息とともに笑みを零す。
「憲武さん、俺を試してるんですか」
「いやいやそんなつもりはないよ、本心からそう思ってんだけどなあ」
「.........俺にはそんなこと出来ないって、あなたがいちばん分かってらっしゃる癖に」
「まだ知恵のこと気にしてるのか」
木梨の言葉に星野は黙り込んだ。
今から18年前、まだ星野が暴走族の本部長だった頃。星野は木梨の妹・知恵と内輪ながら婚約関係にあった。しかし結婚寸前、星野が引退する時に対立していた族との抗争に巻き込まれて彼女は亡くなった。まだ20歳だった。
星野はその頃から木梨はもちろん石橋のことも知っている。二人がその時どんな関係であったかも。知恵を間接的にとはいえ殺してしまったことで二人の溝は深まった。そして恋人を、近い将来伴侶となるはずだった彼女を守れなかった。両方の負い目から、星野は木梨の元へ入り、命を賭けることを誓ったのだ。
「知恵のことは、俺が一生賭けても償えない罪です。あん時ほんとは俺が死んでりゃよかったんですよ」
「そんなこと簡単に言うもんじゃないよホッシー」
「死ぬことだったら今すぐにだって出来ます。でも、そんなことをしたってあなたの気が晴れるわけじゃありません。それなら、もう何の価値もない命なら、あなたのために賭けるしか、俺には方法がないんです。知恵のためにも」
木梨はシートに座り直して窓の外を見つめる。
「舞だってそれを分かってますよ。俺達は、一生結婚はしません。出来ませんよ」
「.........俺は別に、ホッシーに罪を償わせたくて俺んとこに連れて来たわけじゃないんだけどな。ほんとに腕を見込んでのことなんだけど。知恵のことは、もうしょうがないことだ。それにあいつだって星野教昭の女になったからにゃあある程度のことは覚悟してたろうさ」
「でも、本格的にあなたと石橋がこんなことになってしまう原因を作ったのは俺で、あなたから大切な妹を奪ってしまったのも俺です」
「貴明とのことはしょうがないさ。それに、形式的にはまだでも俺はもう知恵はホッシーのもんになったつもりでいた。あいつがそういう道を選んだんだからどうなろうと俺の口出しできることじゃないし、するつもりもない。.......もう、償うなんて言い方はやめてくれ」
キィ、と車は事務所に横付けする形で止められた。エンジンを止めた星野は、ゆっくりと木梨を振り返って、辛そうに笑う。
「それでもあなた方を守ることが、俺が唯一出来ることですから」
そう言って運転席を出て、後部座席のドアを静かに開ける。木梨はふ、とため息をついてから外へ出て、星野を見つめた。
「じゃあ、これは命令だ。この抗争にケリがついたら、舞ちゃんとの結婚考えて」
「!」
「俺は決して不幸じゃない。自分の命を賭けて守ってくれる人間が俺にはいる。........一応、家族もいる。それだけで幸せだよ」
「...........」
「頼りにしてるよ、ホッシー」
ぽんと肩を叩いて、木梨は先に事務所へと入って行った。
「あ、憲武さん御苦労様っす」
「おう」
大原が入って来た木梨の姿を認めて読んでいた新聞から顔をあげて挨拶する。
「星野さんは?」
「ああ、今来るよ。高久と神波は出てんだっけか」
「はい、半田さんと成井さんのまとめたデータもとに駆けずり回ってます」
「そうか、で、半田ちゃんは?」
「あ、奥にいますけど」
目線だけを奥の部屋に向けながら大原は立ち上がり、木梨と星野にお茶を入れるためキッチンに向かおうとする。木梨はそれを軽く手で制した。
「俺の分はいいから、ホッシーに入れてやって」
「あ、は、はい」
「........それから、ちょっとこれから半田ちゃんと話してくるから、誰も部屋に近付けないで」
すたすたと歩いて、ドアをノックする。
「半田ちゃん、入るよ」
大原の返事を聞かないうちに、木梨は部屋の中へと消えた。