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「平山くん?ちょっと相談があるんだけど、会えるかな?」
あれは8年前。
1本の電話が、平山の人生を、平山を全て変えてしまった。
その電話は、秘かに恋していた親友の姉からだった。
呼び出されて行った先は、彼女のバイトする喫茶店。緑と木目の壁の隠れ家みたいな造りの店内。香り高いコーヒーと、花瓶と間違うかのような大きなグラスで出てくる各種フルーツジュースが売り。何度か親友に連れられて行ったそこの、いちばん奥の窓側の席に彼女が待っていた。普段はピンでまとめた薄い茶色のソバージュの髪を下ろし、神妙な顔で窓の外を見ている彼女に、平山は一瞬声をかけるのを躊躇う。が、彼女は平山に気付くとすぐに表情を変え、にこやかに微笑んだ。平山はほっとして彼女の向かいに腰を下ろし、やって来た顔なじみのマスターにキリマンジャロを伝えて、彼女に視線を向ける。
「真紀さん、それで、相談て?」
「あ、うん.......弟のことなんだけど......」
「あいつがどうかしたんですか?そういや最近俺会ってないんですよ、忙しくて」
彼女の親友とは、中学時代からの腐れ縁だった。いい事も悪い事も一緒にやって、何度も喧嘩して、分かりあって、いつか二人でどでかい事をやってやろう、ビッグになってやろうといつも言っていた。比較的キレやすい平山を押さえるのは彼の役目で、その代わり人付き合いの苦手な彼をたてるのが平山の役目だった。一見とっつきにくいが、つきあうと気のいい、優しい奴で。お互いその短所のせいか職をとっかえひっかえして、その多忙な中でもなんとか都合を付けて会っていたのだが、最近は彼からの連絡が途絶えていて、平山はちょっとだけそれが気掛かりだった。そこへ来ての彼の姉からの相談事。思わず椅子に座り直して改めて彼女に向き直る。
「働いてんですよねえ?また職変えたとか?」
「それがね......」
彼女はウインナコーヒーをひとくち飲んで、それから心底困った顔で平山を見て言う。
「........変なとこに入っちゃったのよ.......」
「変なとこって、まさか、宗教とか?」
「その方がまだ救いがいがあるような気がするわ.......ヤクザさんよ」
「ええっ?」
「友達が見たって言うのよ、何かそういう事務所から出てくるところ。で調べて電話してみたら、確かにいるって。ただ本人出してもらえなくて」
「.........ほんと、ですか.......」
「最近アパートにも帰ってないみたいなの。多分あっちに寝泊まりしてるんじゃないかと思って........」
「そんな、なんであいつが......」
信じられないその話に平山はテーブルに肘をついて頭を抱える。彼女は泣きそうな声で続けた。
「.........それでね、お願いなんだけど、こんなこと平山くんに頼むのも何なんだけど......あのコ、どうにかして連れ戻してほしいの」
「俺が、ですか?」
「平山くんの言うことなら聞くんじゃないかと思って.......こんなこと誰にも言えないし.....」
「でも真紀さん、あいつかなり強情ですよ、俺の言う事なんか聞くかどうか」
平山がそう言うと彼女は平山の手を握って訴える。
「平山くんにしか頼めないのよ、こんなこと。迷惑なのは重々承知してるんだけど」
「そんな、迷惑だなんて......俺だってあいつがそんなことなってるなんて放っとけないですよ」
「危険な事頼んでほんとに申し訳ないんだけど.......ごめんなさい、誰にも言えなくて」
「........じゃあ場所教えて下さい、俺これから行ってみますわ」
「ごめんね、ほんとに........」
涙を浮かべて強く手を握る彼女に平山は焦る。
「真紀さん、あの、手......」
「あ、ご、ごめんなさい」
途端に彼女は顔を赤らめて手を放した。ちょっとした沈黙が流れる。間を取り持つように、平山は平静を装って煙草に火をつけた。彼女はバックから手帳を取り出し、紙を一枚破り取って平山に渡す。
「その、書いてある場所なの」
「分かりました、行ってみます」
そこは今いるここからは電車を2本程乗り換えたところだった。特に予定はなかったが明るいうちに行って来たいと思い、平山は煙草を灰皿に押し付けてレシートを取ると立ち上がった。その手を彼女が引き止める。
「真紀さん?」
「.......ごめんなさい、もうちょっと、いてくれる?」
「..........」
「ひとりになると、なんかいろいろ考えちゃって.......」
平山は彼女の手を一度はずし、また椅子に座ると手を握り返した。
「大丈夫ですよ、いざとなったらぶん殴ってでも連れて来ますから」
「ごめんね、ほんとに......」
「いいですって。俺だってあいつとこんだけつき合ってきてんですから」
平山の優しい微笑みに、彼女はやっと安心したように笑った。
彼女と別れて数時間後、平山はメモの場所の最寄り駅に降り立った。何か独特の空気の匂いがする。荒んだ街の風景。無愛想な駅員に切符を渡して、駅前の通りをメモに書かれた場所に向けて歩いて行く。
と。
前からアロハシャツの、いかにもな風体の男が歩いて来た。上体を必要以上に揺らし、両手をズボンのポケットにつっこんで。もしかしたら親友のいるという組の人間ではないかと思いちらとその顔を見て、平山は思わず立ち止まった。
それは、紛れもなく親友だった。ただ、以前と全く雰囲気が変わってしまっていて、顔を見なければ他人と見間違っただろう。さっぱりと刈り上げていたはずの髪を伸ばし、頬がげっそりこけていて、顔つきからもう「その筋の人間」になっていた。ただ、長年つるんで来た平山にだけ分かる目だけが面影を残している。その目も大分鋭くはなっていたのだが。
立ち止まって自分を凝視する平山に、彼の方も立ち止まった。ガンをつけるような視線が、相手が親友の平山だと分かり、一瞬だけ緩くなる。
「.........平山........お前、こんなとこで何してんだよ......」
「お前こそ何やってんだよ」
平山はふうとため息をついて気持ちを落ち着けると、彼の腕を掴んだ。
「何すんだよ」
「何すんだよじゃないだろ、帰ろうぜ」
「何処に」
「何処にって、お前ん家に決まってるだろ。真紀さんが心配してる」
そう言う平山の腕を、彼は強く振払う。
「......何だ、姉貴に言われて来たんかよ、お前。すっかり腑抜けになっちまってよ」
「な......」
「姉貴にお前が惚れてたのなんて、俺ずっと前から分かってたんだからな」
「別に真紀さんに言われたから来た訳じゃない。でも真紀さんに教えてもらわなかったらお前がこんなことになってるなんて知らなかったんだよ。お前俺に全然連絡してくれないし」
「別に連絡するようなことじゃねえもん」
「なあ、帰ろうぜ、何があったか知らないけどさ、今ならまだ間にあうだろ?話なら聞いてやるから」
笑いながら彼の肩を抱き、諭すように言う平山の顔を、彼はいきなり殴りつけた。ふいをつかれて平山はよろける。地面に手をついて彼を見上げた。
「お前のそういうとこがイヤになったんだよ!保護者みたいなツラしやがって、お前も、姉貴も」
「保護者って.......いつ俺がそんなこと.......それに真紀さんは正真正銘お前の姉さんだろう」
「うるせえよ」
彼は平山を見下ろした。冷たい瞳。優しかった面影が消えていた。
「どうせ俺の事をずっと馬鹿にしてたんだろ、自分がいなきゃ何にも出来ないと思って。俺はもうあの頃の俺じゃない。こうやってひとりでやっていけんだよ。今だってまだ入りたてだから大きな仕事なんか任せてもらえないけど、ちゃんと役に立ってんだ。邪魔すんじゃねえよ」
「............」
「分かったら怪我しねえうちに帰れよ」
「.......お前はそんなやつじゃなかったろ、小さい事でも地道にやってくのがお前じゃなかったのか?」
「そんなことしてたら人生終わっちまうんだよ!俺はもうひとりでやっていけんだ、ちまちましたカタギの仕事なんかしてらんねえんだよ。お前もそんなんだとあっという間に歳とっちまうぜ」
「一緒にでかい事やろうって約束したじゃないか」
「忘れた」
次々と投げられる信じられない親友の言葉に、平山は立ち上がるのも忘れて彼を見上げる。
「もう全部忘れた。俺はもうお前とは違うんだ。姉貴にももう俺はいないもんだと思ってくれとでも言ってくれよ。俺はもうこの世界で生きていくってな」
「俺は真紀さんと約束してきたんだ、必ず連れ戻すって。だから帰ろう」
平山は立ち上がると再度彼の腕を掴む。彼も譲らなかった。
「放せよ!」
「帰るって約束してくれるなら放すよ」
振払おうとする彼の腕を掴む手に平山は力を込める。すると、彼は平山のシャツの襟を掴むと懐からナイフを取り出して平山の顎に突き付けた。
「!!」
「俺は本気だぜ」
「お前.........」
「.......ほんとはお前にこんなことしたくねえんだ。傷つけたりしたくねえんだよ。だから放せ」
一瞬見せた優しい瞳。それでも目の前には鈍く光るナイフが突き付けられたままだ。親友の思い掛けない行動。お互いそのままで見つめあう。
「......おい、こんなとこで何をしてる」
その声に二人は振り返った。何時の間にか部下と見えるチンピラを従えた、スーツの男が立っている。
「あ、石橋さん......」
「そいつが何かしたのか?」
「あ、いえ、何でもないんす、すみません」
彼は手を放し、ナイフをしまうとその男に向き直る。
「仕事だぞ、車持って来な」
「あ、はい」
鍵を渡された彼は、平山に一瞥もくれないで歩き出した。平山はその後ろ姿を呆然と見遣る。男はそんな平山の姿をちらりと見て、歩いてゆく彼の頭を軽く小突く。
「あんまカタギさんにそういうもん向けんじゃねえぞ」
乱れたシャツの襟を直そうともせずに、平山はそのままそこに立ち尽くしていた。
その日の夜、消沈してアパートに帰りついた平山を待っていたかのような親友の姉からの電話にも、平山は本当の事を話す事が出来ず、「会えなかった」と嘘をついた。変わってしまっていた親友が何よりショックで、信じられなくて、その後もう一度あの場所を訪れる気にもならず、親友の姉と連絡を取る気にもならずそのまま暫くそれを自分の中から無理に押しやっていた。多少、平山の中に無事彼を連れ戻せれば彼の姉との間に進展があるのじゃないかという打算もあったことは否めない。だがそれよりも、彼のあの豹変振りがかなり堪えて、どうしていいか分からずに数日が過ぎた。
そして。
また、一本の電話が、平山のそれまでの行動を後悔させることとなる。
親友の姉からだった。
彼が、つまらない喧嘩に巻き込まれて、死んだという一報だった。
葬式は、そぼ降る雨の中行われた。年老いた彼と彼の姉の両親と、泣きじゃくる彼の姉の姿に、平山は声をかけられず、そそくさと焼香をすませて祭儀場を出る。自分がもっと強く出て彼を連れ戻せば、こんなことにはならなかったのかもしれないと、平山はあの彼の対応以上のショックを受けた。もうこれで永遠に彼女と向き合う事は出来ないと、そう思いながら傘もささずに黒服の群れを縫って外へ出る。ふと目の前に車が止まって、平山は顔を上げた。黒のプレジデントの運転席から男がひとり出て、後部のドアを開ける。ひとり男が出た後、あの時会った、スーツの男が現れた。
「あ........」
その男は平山をちらりと見て一瞬驚いたような顔をし、懐から香典袋を取り出すと男に渡し、男が中へ入ってゆくのを見届けてから、平山の顔をじっと見た。
「.......あんた、あの時の兄ちゃんだな、あいつと友達だったのか?」
「親友、でした........」
「そうかい」
男が煙草を取り出すと、運転手の男がすかさずライターを差し出す。火をつけて煙をゆっくりと吐き出すと、祭儀場の方を見ながら言った。
「今回のは組とは関係ないんだよなあ、あいつが勝手に肩当たったやつに絡んじまって。あげくてめえから売ったくせにてめえがやられちまってよ」
「.............」
「これから人員が必要だって時に」
「........そんな風にしかあいつの死を取れないんですか」
「おいあんた、誰に向かって口聞いてんだよ」
「俺は別にこの人の部下じゃない」
男の言い種にかちんと来た平山が運転手の男にそう言い返す。男はふ、と鼻で笑って平山を見た。
「.......いい度胸してんな、兄ちゃん。あいつとは大違いだ」
「どうも」
平山は内心どきっとしながらも、無愛想にそう答える。程なくしてさっきの男が戻って来て、車のドアを開けた。男がすっと乗り込んで、ドアを開けた男が乗ろうとするのを手で制して、懐から名刺を出すと平山に渡す。
「?」
「........さっきも言った通り、人員が足りなくてな。まああんたもちゃんとした仕事してんだろうけど、もし何かあったら尋ねて来い。.......あいつの遺志でも継ぐ気があったらな」
「.........」
「最初は下っぱだけど、あんたならそのうち仕事任せてもらえるだろうさ」
そう言ってから前を向き、顎で運転手を促す。男が乗り込んでばたんとドアが閉まると、プレジデントは雨の中を消えて行った。取り残された平山は、渡された名刺を見つめる。
今の生活に不満はなかった。ただ、特にこれといって思い入れがないのも確かだ。こんなことになってしまった以上、彼女の姉とはもう会えない。そして地道ながらも夢を叶えようとしていたが、その共に夢を叶えるはずだった唯一の親友ももういなくなってしまった。ここにこうしている必要が、今の平山には全く見つからなかった。
それならそこで生きてみようか。あいつが目指すものが何だったのか、探してみようか。
今までにない大きな人生の選択に、平山は戸惑う。
このどうしようもない虚脱感から抜け出すには、何か始めないと、前へ進めないような気がした。
逃げられない。
ここと今からは逃げられない。
それならいっそ、新しい人生を始めてみようか。
平山は名刺をポケットにしまうと、雨の中を歩き出した。
平山が再びあの駅に降り立ったのは、それから数日のことだ。
全て親友の後を受け継いだ。地位も、住む部屋も。親友が住んでいたその部屋は少しだけ辛かったが、今までとは全く違う生活にすぐそれも忘れた。そしてあの頃の自分も、全て自分の中にしまい込んでしまった。情熱は全て秘め、ただ日々の生活の中に自分を埋没させて。そうしてゆくことで平山は持ち前の行動力や度胸でのしあがり、今では当時若頭だった組長石橋を支える参謀となった。
ただ。
ジェリーを見ると、時々あの頃の自分が蘇る。沸き上がるような情熱。ジェリーは昔の自分を彷佛とさせて、たまに胸が痛んだ。だが、石橋は自分のそういう所は必要としていないのを十分承知していたので、平山はそれを出す事だけは避けた。ジェリーはいいのだ。ジェリーはそういう所を買われて今ここにいるのだから。その腕だけを買われてここにいる。だから本当は石橋が自分より成井を買っているのもよく分かっていた。「情」は必要無い。石橋にとって「情」はいらないもの、くだらないものだった。それだからこそ、あの時どうして石橋が自分を組に入れようとしたのかが全く分からない。やはり度胸だけを買われたんだろうか。石橋はそういう人なのだろう。個人には興味がない。成井もそういう人間だし、シュウはもともと石橋に仕えて来た家の人間なのだからそれもよく分かっているのだろう。違和感を感じながらも、何処に行く事も出来ずに、今平山はこうして生きている。
ここと今からは逃げられない。
それが平山がこうしている理由。
今から8年も前の話である。