盗まれた唇
梯子のきしむ音がゆっくりと近づいてくる。慣れた気配と靴音にコビーは一瞬窓から視線をはずして振り返った。
「おかえりなさいー」
「おー、新しいポットと、あと毛布」
「…ヘルメッポさん、なんかここだんだん僕らの部屋の匂いがして来たんだけど」
「ここのうっすい毛布だけじゃ足りねえもん」
「まだ秋口なのにー」
「俺ァ寒いんだよ」
今晩は朝まで見張り番。結構根気の要るこの任務を少しでも快適にしようとヘルメッポは少しずつ私物を持ち込んでいる。自室で愛用の毛布まで抱えてきたのを見てコビーは笑った。
「冬島とか行くことになったらどーすんの」
「そしたら俺は一歩も動かん」
「中将の命令でも?」
「…そん時考える」
今のところ鬼より怖いガープの名前を出され、ヘルメッポは眉をしかめながらカップにお湯を注ぐ。海軍に入って知った『煎茶』というやつのティーパックを長い指で数回動かし、ちょうどいい濃さにしてすする。温かさにやっと心地がついたようにふっと息を吐き、毛布を肩からかけながら窓の外を見た。
「特に異常ないな」
「うん、届出のある船の航海も順調みたいだし、今日は久しぶりに天気もいいし」
「そうだな…ああ、星がよく見える」
窓の外を見上げ、ついさっきまで寒いと言っていたはずなのに目の前の窓を開け、反対側の様子を日誌に書き留めたコビーを振り返る。
「コビー、ほら」
「何々ー、わーすごい星キレー!スパンコールみたーい」
「フォーマルハウトが見えるな」
「フォー…、って、何?」
隣に座って首を傾げたコビーに、ヘルメッポはまたカップに口をつけると、ひとくち飲んでから水平線に近い位置にある明るい星を指差した。
「フォーマルハウト。秋の星空に唯一ある一等星、いちばん明るい星だ。みなみのうお座って星座なんだ、あの辺」
「へー、ヘルメッポさん星座詳しいんだね。星、好きなの?」
「まあな」
「天文とかそっち進もうと思ってた?もしかして」
「いや、そこまで好きってわけでもねえんだけど」
流すように周囲の船影を確認し、それからまた空を見る。
好きにやっているように見えてきちんと仕事をこなす技をヘルメッポはいつのまにか身に着けていた。いくら任務でも四六時中100%気を張っていてはやっていられない。また、自分はそういう役割を担っているわけではないことも十分承知している。それは隣にいる彼に任せ、その対極までとは行かなくても、少し引いた場所にいるべきだとヘルメッポは思っていた。
「ガキの頃な、寝室にでっかい天窓があってな。そっから星がよく見えたもんだから、なんとなく」
「えー何それそのセレブ生活」
「そんなんじゃねえって」
机に肘をつき、コビーの方は見ずに自虐的な口ぶりで半ば独り言のように呟く。
「…母親いねえし、あんなクソ親父が一緒に寝てくれるわけねえしな。ひとりで眠る部屋にたまたま見えたのが星空さ」
「…」
「ああいう俺だったから友達もいなかったしよ、なんとなくずっと空ばっか見てた。お前みたいに明確な目的があって生きてたわけじゃないし、ほんとたまたまだよ。そんでももしこれから必要性があったらちったあ勉強しなおしてもいいかな」
「…うん」
「何だよ」
「ごめん」
しゅんとして膝を抱えなおしたコビーにヘルメッポは向き直った。
「別に謝るとこじゃねえだろ」
「でも、なんか余計なこと言っちゃった」
「余計なことでもねえし、もしそうでもお前なら何を言われても俺は気にならねえよ。思ったことすぐ言うくせにいちいち気にかけんな」
「うん、ごめん」
「だーかーらー」
成長して強くなって、昇進しても昔からの癖はなかなか直らない。もちろん過去の出来事がベースにあっての癖なのは聞いてよく分かっているのだけれど。
「俺に気を使うな、この『俺』に!ほれ、カップよこせ!!」
よこせと言いながら強引にコビーのカップを引っつかむとお湯を勢いよく注ぐ。それでも茶を抽出させる仕草だけは慎重で、納得のいく色に変わったところでカップを押しやった。
「茶」
「…ありがと」
コビーはカップを受け取ると、照れたように窓の外に視線を向けたヘルメッポと同じように空を見る。
「星座の名前もみんな知ってんの?」
「あー、だいたいはな」
「さっきのあの星の上、なんか明るい星いろいろあるじゃない。あの辺は?」
「ちょい上がペガスス、左上にアンドロメダ、その上のWがカシオペア」
「すごーい」
素直に感嘆するコビーに得意顔。
「ちったあ知ってた方がいいぞ、航海術にも役立つんだからよ」
「いいよ、ヘルメッポさんにお任せするから」
「へいへい」
「でもほんと、すっごいキレイだねー」
そう言って茶を飲み、ふふっと嬉しそうにコビーは笑った。
「…何だよ」
「なんか幸せだなーって思っちゃって」
「この散々こき使われてしごかれてこんな真夜中寝ずの番しなきゃいけねえ状況がか?」
「いや、まあ幸せって言うと変かもしれないけどさ」
星空と船影とそこから漏れる光を流し見て、サングラスをしていないヘルメッポの顔をじっと見る。
「好きな仕事が出来てさ、そりゃまだ全然何も出来やしないけど。それでも楽しいし、少しは成長したなって実感もあるし」
「ああ」
「昔に比べたら、まともな暮らしっていうか生き方が出来てるし、いい上司がいていい部下がいて」
「…」
「こうやって星を見てお茶飲んで、隣にヘルメッポさんがいて」
その言葉にこちらを向いていたヘルメッポの頬が少し赤くなる。
「…俺で、いいのか。隣にいるのが」
「ヘルメッポさん以外にいないよ。好きな人が隣にいるなら尚のこと嬉しいもの」
「…」
「ヘルメッポさんは?幸せじゃない?」
「…どんだけ直球なんだよ、お前。恐ろしいな」
「だってそう思ってんだから仕方ないじゃない」
にこにこと笑いながら言うコビーの言葉にはもちろん何の邪心もない。ヘルメッポはがりがりと頭を掻き、ますます赤くなりそうなのを振り払うように言った。
「幸せって言っていいかどうかは分からんけどな…まあ、やりがい?生きがいか、それはあるな」
「でしょー」
「お前がいてくれることも…助かってる」
「うん、僕もそう思ってるよ。ずっと一緒なら、もっといい。当然上を目指すけど、現時点なら僕きっと世界一幸せだよ」
真っ直ぐに気持ちを表すコビーの姿にまともに向き合えず、ヘルメッポは視線を外した。
「…そりゃー、違うな」
「えー?」
「お前は二番目かそれ以下だろ」
「なんでー?じゃー誰が一番…」
しなやかな腕が伸び、上体が傾けられる。
肩から毛布がふわりと落ちる。
「俺だよ」
ヘルメッポの姿が重なったと思った時には、唇が触れ合っていた。
あっという間だった。
その感触をきちんと理解する暇も与えない程の一瞬。目の前にプラチナゴールドの髪がさらりと揺れた。
「ヘルメッポ、さん…」
「…悪い、ちょっと一服してくる」
仰ぎ見たヘルメッポの伏せた目に情愛の熱。
返事を聞かぬまま、させぬままヘルメッポが梯子を降りてゆく。少しの間ぼんやりとしていたコビーはふと我に返って傍らの毛布を拾い上げた。
ラベンダー色のそれはヘルメッポの以前からの愛用品で、薄い割に暖かくて手触りがいい。煙草や彼の匂いがしみ込んだそれを抱えると、片手で唇に触れる。
風のようだった。
ほんの少しだけ触れた唇。
視線も、思いも重なる時間もなかった。
「…ずるい」
再び上がってきたヘルメッポはサングラスを下ろしていて、必要以上に時間をかけて梯子をあがると何も言わずに元の机の前に座った。コビーの方を向くこともなく、暗い海をゆるく見回してから開け放たれていた窓を閉めると、本棚に手を伸ばす。
「お前休んでていいぞ、俺見てっから」
「…ヘルメッポさん」
「俺ばっか中座してるしよ」
「別に、そんなの」
「いいから休んどけ。お前いつでも全力全開過ぎなんだから」
「ヘルメッポさん」
コビーは壁に寄りかかったままヘルメッポの背中を見つめた。
好きだと言ってくれたことが、同じ思いでいてくれたことが嬉しかった。
あまりにも一緒に、同じようにいすぎて、お互いどうしていいか分からないくらいの強い思い。正義への熱に関しては多少温度差はあるけども、その差を理解できる間柄。そして今、部下というより参謀として支えてくれる関係。
一緒にいられることが嬉しくて、幸せでたまらない。
でも彼はまだ自分程率直に表してはくれない。それが先程の触れた時間の長さ。
何かが邪魔して、負い目に思ってそうしているのは分かっている。
それを飛び越えて欲しいのに。
自分はそれで構わないのに。
既にそれ以上の関係だと思っているのに。
ずるい。
こんな置いてきぼりはない。
「ヘルメッポさんてば」
「んー?」
「…こっち、向いてよ」
時間を置いてヘルメッポはゆっくりと振り返った。サングラスのせいで視線は遮られているが、それでもきっと自分を見てくれているだろうと思い、それを真っ直ぐに見つめ返す。
「さっきのって、どういう意味?」
「…っ、さっき、って、どの」
ヘルメッポがうろたえるのにも構わず、コビーは口を尖らせた。
「何で僕よりヘルメッポさんの方が幸せなの?」
「…」
「絶対僕だと思うんだけど」
「…そっちかよ…」
「え?」
「何でもねえ」
決まり悪そうに視線を外す。
「つーかなんでそこ張り合ってんだよ」
「だって僕の方だって思ってるんだもの、僕は」
「じゃあそれでいいよ。お前の方が幸せ、俺二番目、それでよし」
「それは駄目」
コビーは正座して自分の膝をばんと叩いた。ヘルメッポはゆるりと顔をあげると眉を寄せる。その様は他人が見たらさぞ面倒そうに見えるのだろうけど、コビーにはそう見えないし、そう感じもしない。
「駄目、ってお前」
「一度自分の方が一番だって言ったじゃない、そう言ったからには教えてよ」
「そんなに知りたいのか?」
「うん」
「…」
それを言わせるのか。今ここで。
まだそう言うには早すぎると思うのに。
自分がうぬぼれているだけなのに。
まだまだ時間が必要なのに。
…それでも、お前がそう望むのなら、言ってもいいのか。
「…俺にとっては、お前の横に俺なんぞが立たせてもらえてる事実が幸せだ」
「え…」
「だから、お前が俺といることより、俺がお前といられることの方が勝ってんだよ!」
ヘルメッポはやけになってそう言うとコビーに背を向けた。
「細かいとこ突っ込むなよ、上手く説明できねえんだ」
「ヘルメッポさん」
「…まあ、俺の基準だけどな。これで少しは納得出来たか?」
「それだけ?」
「な…」
思いがけない言葉に慌てて振り向く。
「それだけ、って…他に、何が」
「まだ、あるでしょ?」
「…何言わせるつもりだ」
「どうしてキスしてくれたの?」
「!」
コビーは上目遣いにヘルメッポを見た。お互いの位置は変わっていないのに、コビーが若干近づいて来た気さえする。
「お…前、それを、聞くか」
「だってほんとに聞きたかったのはそっちだもの」
「…まどろっこしいことすんなよ…」
「まどろっこしいのはヘルメッポさんじゃないか」
「…」
逆らえない熱意にヘルメッポは諦めて身体ごとコビーに向き直った。サングラス越しにその真っ直ぐな視線を見返して、言う。
「…好きだから、に、決まってんだろう」
「ほんと?」
「こんなこと嘘言うか、バカ」
ヘルメッポは座りなおして乱暴に髪をかきあげた。最早取り繕いようのない程顔が赤くなっている。その姿にコビーは嬉しそうに笑った。
「ヘルメッポさん、真っ赤」
「うるせー、誰のせいだ誰の」
「可愛い」
「か…」
「そう言ってくれて、嬉しい。大好き」
「コビー」
「宇宙一大好き」
「…すげえな、規模が」
「ヘルメッポさんは?どのくらい?」
「そりゃ言わなきゃいけないのか」
「だって僕ばっか言ってたら割りに合わないもの」
その純粋な言葉にいちいち照れるのさえ馬鹿らしくなって、ヘルメッポはため息をついた。
「いーんだよ、それで」
「何でー?」
「お前が言い過ぎるくらいでちょうどいい」
俺の方が好きなんだから、それで割合チャラだろ。
「ずるい!」
「ずるいってお前…」
「だいたいさっきのだってずるいよ!なんであんなふいうちでキスすんの!」
「な…んで、今更、それを」
「僕だっていろいろ思うこととかさ、心の準備とかあったのに」
「…それは、すまん」
「あーもーそうじゃない」
コビーはもどかしそうに首を振り、それから身を乗り出す。
「もう一度、キスして」
「コ…」
「ヘルメッポさん」
こんなに名前を呼ばれて嬉しいと思ったことがあっただろうか。
息を飲む音が聞こえてしまわないだろうか。
ヘルメッポはゆっくりとサングラスをあげた。コビーがじっとこちらを見、そして壁に背をつける。目も閉じず、そのままただこちらを見つめ返して誘う。その視線につられるように立ち上がってコビーに近づき、膝をつく。
「コビー」
「キス、して」
頬に手を添えると、コビーがそこに触れた。もう片方の手を壁につき、ゆっくり顔を傾けて、唇を重ねる。
「ン…」
柔らかくて、熱い。
ひとと触れ合うのが、こんなに幸せだなんて。
こんなにも、嬉しいだなんて。
「…ヘルメッポ、さん」
「コビー」
「もう…おしまい?」
熱が離れる感触にコビーは名残惜しそうにそう言った。手をついたまま彼を軽く見下ろし、ヘルメッポは笑う。
「足りねえのか」
「うん」
「わがまま」
「ケチ」
「俺はこう見えて、結構貪欲だぞ」
「いいよ、僕もそうだから」
その言葉が終わらないうちにヘルメッポはコビーを強く抱き寄せた。腕の中に身体を収め、見つめる。
「コビー」
「ヘルメッポさん」
「好きだよ」
「僕も、大好き」
コビーの手がヘルメッポの背に回った。
唇が重なって。
離れて。
それから、また重なる。
「ン、ン…」
お互いを求めるその熱さ。
唇が触れ合う、その幾分淫靡な響きさえ愛しい。
舌が差し込まれてびくりとしたコビーを抱きなおすと、彼の手がシャツをぎゅっと掴んだ。
「…ッ、は」
「コビー」
「ねえ、ヘルメッポ、さん」
「ん」
「目、開けてても、いい?」
その言葉にヘルメッポの動きが止まる。
「何で」
「その瞬間までヘルメッポさんを見ていたいから」
「…悪趣味だぞ」
「最初の時はヘルメッポさんを見る暇もなかったよ」
「…」
「大好き」
「好きにしろ」
*****
翌朝、晴天。
下から部下の海兵が上がってくる。
「曹長軍曹、おはようございます!長時間の見張りお疲れ様でし…」
言いながら身体半分程見張り台に入ったところで彼の動きが止まった。
「おーす」
「おはよう、ご苦労様」
そう言った二人は背中合わせに座り、ヘルメッポ愛用の毛布に一緒にくるまっている。目が点になった海兵を尻目にコビーは後ろを振り返った。
「ヘルメッポさん日誌まとまった?」
「もう出来てるよ、あーねみー」
盛大な欠伸を呆然と見つめていると、梯子の下から別の海兵が上がってきて声を掛ける。
「おいお前なんでこんなとこで止まってんだよ、上がるなら上がれって」
「…いや、無理」
「は?」
「これをどうしろと」
狭い入り口に無理やり顔を出したもう一人が見たのはそんな光景。
「…ああ」
「な?」
「どうする?」
「…戻るか」
「…そうだな」
ため息をついて頭を引っ込めた海兵達に自覚のない二人が声を上げる。
「えっ、ちょっと、なんで帰るの」
「待て待て交代だろうがよ、俺らを眠らせろ!」
無意識の居辛い空気を残して若い海兵達を悩ませる二人なのでした。
思いの他長くなりました…うちはこんなスタンスで。
つーかこれで大丈夫ですか?